8神に勝てないユダヤ主義

ヨハネの黙示録に、次のように書いています。

「見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた、また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。御座からは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。また、七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である」(425)。

二十四人の長老は、英訳では四と二十の長老となっています。二十は正数の十と負数の十を意味するのです。

聖書の真理は、今まで負数の状態ばかりで説明されてきました。肉の状態からだけ、説明されていたのです。

負数はマイナスの数字であって、数が多ければ多いほど、マイナスが大きくなるのです。

正数の方は、数が少なくても、実数があるのですから、プラスすれば、必ず大きくなっていくのです。ここがマイナスと違うところです。イスラエルの回復ということを、本当に口に出して言う人が、六十四億の人類の中で、たとえ数人しかいないとしても、それだけの価値があるのです。

信じない人が六十四億人あっても、マイナスが六十四億あるだけで、実数は全くないのです。六十四億の膨大なマイナスの集団があるだけであって、実際の力は何もないのです。神の霊力を引きつけることは、できないのです。神の霊力を妨害することも、できないのです。

聖書を信じない人が何十億人いたとしたところで、私たちを妨害することはできないのです。私は、政治は間違っている、文明は間違っている、現代文明は全てユダヤ主義なのだ。日本でユダヤ人問題について、正しく説明ができる人がいないと言っても、そうではないと反対できないのです。

これは正数の意見ですから、ごくわずかであっても、正数は正数です。数は絶対多数でも、負数なら神に対して何の力も持たないのです。悪魔の力はそれであって、負の無数の数を持っていますが、正数には反論できないのです。

この世に反撃すると、妨害はされるでしょう。迫害はされますが、神が開いた門は、閉じることはできないのです。肉と霊の闘いは、最終的に、霊が勝つに決まっているのです。イエス・キリストが復活したというのは、全てのことに勝ってしまったことなのです。私たちは、イエスの復活に乗って、そのレールの上を走っていくだけのことです。目的地に必ず到着するでしょう。

民主主義、人道主義、ヒューマニズムは、負数の考え方です。人間の考えにすぎないのです。人間の考えというのは、死んでいくに決まっている考えです。

人間同士の愛と、神と人間の霊魂に関する愛とは、愛の本質が違うのです。全然違います。プラスする愛でなければならないのです。

二十の座は、霊の十と、肉の十です。四は現象世界の数です。四は森羅万象の数です。森羅万象全体の千々万々の天使の働き、植物の一切、動物の一切は、人格的に言いますと、四という数字になります。

冠は人格のことです。人間はたったの六十四億です。植物の全体、動物の全体、鉱物の全体から見れば、わずかな数です。

ところが、人間は二十です。正数と負数の両方を持っています。悪魔にも神にも、どちらにも味方ができるのです。正数でも負数でも、どちらでも使えるのです。

人盛んなる時は、天に勝つという言葉があります。人間の教育の力は、聖書よりも強いのです。ユダヤ人の教育主義は、現世では、神の信仰、祈りよりも強いのです。しかし聖書に反対できないのです。

スローン(座)が説明できる学者はいません。金の冠をかぶっている学者はいないのです。金の冠は神が与えた冠です。これをかぶっている学者はいないのです。純金は神の思考方式を意味しています。神が人格を認めている冠が、純金の冠です。

人間に神の力を十点、悪魔の力を十点と、両方を与えている。大胆なものです。神は霊しか認めていないけれども、肉の十点も与えている。ですから神が損をするのです。人盛んなる時は、天に勝つのです。今、世界中の大学が、こぞって神に反対しているのです。神が世界中の大学の教授に負けているのです。政治、経済の力は、膨大なものです。神は負けても知らん顔をしています。大したものです。

私たちが冠を投げて、それが御座に座する方の前に置かれると、大変なことになるのです。歴史がひっくり返ってしまいます。キリストの再臨が実現することになるからです。

絶えず祈ることが必要です。いつでも御霊を崇めて、御霊の前に平服するくせをつけるのです。お茶を飲む時には、お茶の味に平服するのです。人に話をする時には、平服しながら言うのです。そういう訓練をしなければ信仰が向上しません。日常の心がけを、もっと重大に考えるのです。

千々万々の被造物は、四の人格性を持っているのです。四の人格性というのは、現象的に存在する説明になるのです。

山を見ると、青葉、若葉がいっぱい見えます。これをじっと見ていると、それが一斉に押し寄せてくるような迫力を持っています。これが四つの力です。四の人格性です。彼らは青い葉、花を咲かせるという在り方で、私たちに訴えようとしています。

花は待っています。女性が待っているように、花は待っているのです。見てくれる人、認めてくれる人を待っているのです。

花が咲いているのは霊です。霊の状態で花が開いて、生きている人間に、見てもらおうと考えている。これが待っている姿です。見てくれる人間を待っているのです。そうでなければ、何のために咲いているのでしょうか。

宇宙には、銀河系のようなものが、何兆もあるでしょう。しかし、花が咲く惑星は、地球だけです。大海があるのは、地球だけです。地球は宇宙のエデンです。エデンそのものです。皆様はエデンに住んでいるのです。ここで神が分からなくなったら、しょうがないのです。全く地獄行きです。

人類最初のロシアの宇宙飛行士ガガーリンが、宇宙から地球を見て、地球は青かったと感動しました。地球が青かったというのは、地球がエデンであったことを意味しているのです。

現象はそれ自体、人格を持っているのです。太陽の光、月の輝き、大自然の美しさは、人格を持っているのです。これが四という数字で示されているのです。

四という数字は、二十の助けを受けなかったら、本当の四にはなりません。そこで、四と二十の冠は、二十が冠を投げると、大自然も冠を投げるのです。そこで、二十四の長老が、全部冠を投げることになるのです。

人間だけでなく、森羅万象が皆神に帰することになるのです。そこで新天新地が実現するのです。

まず私たちが冠を投げ出すのです。今までの説明でなるほどと思えた人が、長老です。なるほどと思えない人は、長老の中には入らないのです。

黙示録の四章は、私たちの命の実体を書いています。いなずまのこと、もろもろの声のこと、雷鳴のことは、皆様が生きている状態を述べています。大自然を見たり、星を見たり、雨が降ったりしているのをじっと見ていると、皆様の心の中に、いなずまと、雷鳴が感じられるのです。雨を通して、神が御座から語っていることが、何となく直感できるのです。そういうハートを、人間は持っているのです。

私たちが生きているのは、不思議な不思議なことを経験しているのです。飲んだり食べたりしていることは、全く不思議なことです。私たちは万物に代わって、神そのものを味わっているのです。神そのものを見ている、神そのものに触っているのです。万物を代表して、神を経験しているのです。

万物に代わって、神を経験する状態を、魂というのです。これが生ける魂(リビングソール)です。皆様のリビングソールが目を覚まして、御座に仕え始めたら、イスラエルはひっくり返るに決まっています。イスラエルがひっくり返ったら、キリストはすぐに再臨するでしょう。キリストはそれを待っているのです。

エホバの御名に基づいて、黙示録の四章を見ていくのです。イエスの御名によって見ていくのです。そうすると、命の世界が新しく輝き始めるでしょう。今まで生きてきた命ではなく、別の命になるからです。

皆様の決定的な弱点を言いますと、この世に何十年間も生きている自分がいると思っていることです。ところが、何十年もこの世に生きてきたという事実はないのです。

なぜかと言いますと、皆様の肉体はいなずまです。もろもろの声です、雷鳴です。形態という次元が加わっている。肉の思いによって、もう一つ、闇そこで四という数字になっていますけれど、第四の形態は負の数でもろもろの声と、雷鳴は正数ですが、形態は負数です。正数が三つ四になっているのです。現在、皆様の心臓が動いていること、目が見えることは、正数の三つです。皆様が何十年か生きていると思っているのは、負数の方です。皆様は負数の記憶を信じています。それで自分が生きてきたと思えるのです。皆様の日常生活の思いは、肉の思いです。肉の思いが、自分という人格を追っている。これが悪魔的です。

神は肉の十点を与えているから、この世に何十年も生きてきたと思えますが、神は知らん顔をしています。家があるとか、財産がある、健康的である。美人であるとかないとかを、神は全然問題にしていません。そういうのは全部肉の思いです。

 黙示録の四章を正しく勉強すると、今生まれた嬰児のようになるのです。今生まれた嬰児を承認するのでなかったら、神の御座のことを勉強したことにはなりません。ここが厳しいのです。

 人間は瞬間瞬間変わっ現在、皆様の心臓が動いていること、目が見えることは、正数の三つです。皆様が何十年か生きていると思っているのは、負数の方です。皆様は負数の記憶を信じています。それで自分が生きてきたと思えるのです。皆様の日常生活の思いは、肉の思いです。肉の思いが、自分という人格を追っている。これが悪魔的です。

神は肉の十点を与えているから、この世に何十年も生きてきたと思えますが、神は知らん顔をしています。家があるとか、財産がある、健康的である。美人であるとかないとかを、神は全然問題にしていません。そういうのは全部肉の思いです。

黙示録の四章を正しく勉強すると、今生まれた嬰児のようになるのです。今生まれています。死んでいく自分はいない。生きている事実ばかりがあるのです。

御座の前で生きるのです。御座の後ろで生きているのは、生きているとは言えないのです。

わが前に歩めと神は言っています。神の前、御座の前、いなずまと雷鳴の世界だけに生きるのです。自分の記憶で、五十年生きていたから、いろいろな経験をしたと考える。これは御座の後ろ、神の後ろの思想です。

神の前で考えるのです。神の前が命のあるところです。神はわが前に歩めと言っています。生きていることが聖なることです。神の前にいるものだけが聖です。今、私たちは六十四億の人類を代表して、また万物を代表して学んでいる。これが御座の前です。

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