10人問はアスクするために生まれてきた

自分に与えられている事情境遇を、自分の命だと思いこんでしまうのです。ですから結婚すると女性は奥さんになるし、男性は旦那さんになってしまう。これが悪いのです。妻の座、夫の座に座り込んでしまうのです。商売をしている人は、店主の座に座る。サラリーマンの課長は課長の座に座る。不動産を持っている人は、自分の家だと思って座っているのです。この世に生きていることが永遠にあるように考えるのです。それが自分自身の本当の位であるように思いこんでいる。自分の座が、自分の永遠の運命のように考えているのです。

この世に生きている人は、この世から別れなければいけないのです。この世から別れて暮らせば、気楽です。自分はこの世のものだと思っていることが、間違っているのです。人間は一番しなければならないことを、していないのです。どうでもいいことばかりをしているのです。一番しなければならないこととは何か。それはイエスが山上の垂訓(マタイによる福音書五章〜七章)で述べていることです。

人間がしなければいけないことは、アスク(ask)することです。本当の命、死なない命を捉えたかったら、アスクすることです。

アスクは第一に問うという意味があります。第二に求めるのです。第三に要求という意味があるのです。アスクは、問い求めよと訳すと、一番いいのです。日本語の聖書は、求めよと訳していますが(同77)、問い求めよと訳した方がいいのです。

マタイによる福音書の第七章は、最も重要なことで、一番基礎になる大切なことを書いています。問い求めるのです。まず問うのです。それから求めるのです。その上に、シーク(seek)することが必要です。捜すのです。又、ノック(knoch)することがいるのです。アスク、シーク、ノックの三つが、一番大切なのです。まず、アスクするのです。アスクしていると、自然に分かってくるのです。

人間と霊魂がこの世に出てきたのは、アスク、シーク、ノックするためです。日本人でこれをする人はほとんどいませんから、日本人は皆、地獄へ行くことになるでしょう。

なぜアスクする気持ちにならないかと言いますと、現在の自分に満足しているからです。自分自身の在り方でいいと思っているからです。

アスクするためには、自分自身がいつでもだめだという気持ちがなければならないのです。現在の自分はだめだという気持ちがなければ、アスクできないのです。これだけ分かったから、神に認めてもらいたいと思っている人は、アスクしていないことになるのです。結婚というものほど、人間を腐らせるものはありません。男性も女性も、両方共に腐ってしまうのです。ですから、パウロは結婚は良くないと言っているのです。

男性は結婚すると、旦那面をするのです。そこでだめになるのです。女性は困ったことに、母性本能があるために、主人をだめにしてしまうのです。

人間がこの世に生まれてきたのは、アスクするためです。アスクするためにだけ生まれてきたのです。アスクする結婚をすれば、すばらしいものになるのです。こういう人はめったにいないでしょう。

アスクする結婚とはどんなものかと言いますと、男女の交わりとは何だろうかと、深く考えるような人間です。男性は女性を抱きますが、それで終わりです。ただ性欲を満足させているだけです。だいたい男性が女性を抱くというのは、とんでもないことです。それには、すばらしく深い意味があるに決まっているのです。

お風呂に入るとなぜ気持ちがいいのでしょうか。これを考えることがアスクです。リンゴを食べるとリンゴの味がするのは、どういうことなのか。味とは何か。銀河系の宇宙に、味があるはずがないのです。鯛の味が、銀河系にあるはずがないのです。

銀河系宇宙の中の太陽系の中の一つの惑星である地球に人間が住んでいて、いろいろな生物がいる。果物がある。野菜がある。米や麦がある。これは一体どういキ二十とでしようか。人間は一体何をしているのか。結婚をしたり、就職したり、商売をしている。けんかをしたり、嘘を言ったり、人を騙したり、憎んだり、思い煩ったりしている。これは何をしているのでしょうか。

人間が生きているのは、絢欄豪華なすばらしい営みです。すばらしい部屋が、奥深くつながっているようなものです。これが神の国の光景です。人間が生きていれば、自然にこれが分かってくるはずです。

何でも好きなものが食べられるし、行きたいところへ行けます。人間は世の中で一体何をしているのか。何をしているのでしょうか。こんなに便利で有難い生活をしていて、なぜこの意味が分からないのでしょうか。

この世に生きていることは、そのまま神を経験しているのです。森羅万象には、永遠の命がそのまま展開しているのです。

現世にいながら、現世に生きないで、天に生きることができるのです。大きな展開につながって、真っ直ぐに歩いていくと、千年間の絶対平和が実現する「千年王国」、そして地球が消滅した後に現れる「新天新地」 へと続いていくのです。

人間の営みが質的に変化すると、神の営みになるのです。新天新地という永遠無窮の世界につながっていくのです。

人間は世々限りなく王となるために、この世に生まれてきたのです。救われたいと思って聖書を勉強しているのが、間違っているのです。この世に生きている人間は、全部地獄へ行くのです。この世を出てしまうと、この世の本当の姿が見えてくるのです。

神に生かされているということは、神の国に生きていることです。神の国に生きていることは、そのままとこしえの命に生きていることなのです。

イエスはこういう感覚で生きていたのです。イエスは天から降りてきて、なお天にいたのです。この世にいても、天に生きることは十分にできるのです。

この世に生きている者は、いくら聖書を勉強してもだめです。思想の勉強ばかりになるからです。命にならないのです。

この世から出て生きると、自分を信じないで神を信じるという生き方が定着します。そうすると、勝手に神の子になるのです。


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