11アブラハムの約束を全然理解しないイスラエルの人々

異邦人が救われるということは、大変なことです。皆様の頭の中には、異邦人としての考えと、キリスト教の観念が入っているのです。キリスト教へ行ったことがない人でも、キリスト教の観念が入っている。聖書はキリスト教の教典だと思っているのです。ですから、聖書の理屈の勉強はしますが、信じていないのです。

キリスト教の神なら何でもない。すぐ信じたらいい。信じられるのです。アイ・アム・オール・マイティ・ゴッド(Im all mighty God)と神自ら言っている。この神を信じられるかどうかです。

アブラハムが神に義とされた。アブラハムが神を信じて、その信仰が義とされた。神に義とされるとは、どのくらいのレベルのことでしょうか。

アブラハムの信仰以外に、信仰はありません。キリスト教は、それ以外の信仰を、勝手に作っているのです。義とされたということを、とても安易に考えているのです。

キリスト教に入って、洗礼を受けたら、もう義とされたと考えているのです。これは無茶苦茶です。世界中の十数億のキリスト教信者の中で、神に義とされた人は一人もいないのです。それは、彼らが神を義としていないからです。

神に義とされるためには、神を義としなければいけないのです。神を義とすることが、神を信じることなのです。

神を義とするということは、恐ろしくて誰も言わないのです。義とすると、義とされるとは、同じレベルのことです。例えば、愛することは、愛されることを意味するのです。愛というのは、同じレベルにおいて、愛し愛されるのです。

義とすることも同じです。義とされることは義とすることです。人間は神を義としていないのです。

例えば、オール・マイティ・ゴッドという言葉がありますが、これを認めれば、これだけで義とされるのです。アブラハムはオール・マイティ・ゴッドを認めた。これが平伏したという言葉になって現れているのです。

アブラハム・フエル・オン・ヒズ・フェイス(Abraham fell on faith)。これは大変なことを言っているのです。アブラハムは平伏したと訳していますが、これは間違っていませんが、完全な訳になっていないのです。

神はアブラハムに、アイ・アム・オー〜・マイティ・ゴッドと言ったのです。アブラハムは九十九歳まで神を知っていましたが、オール・マイティ・ゴッドが分からなかった。オールマイティという言い方に、現前的な意味での絶対的な宣言があったのです。

アイ・アム・オール・マイティ・ゴッドと言われて、アブラハムは憤然とした。びつくりしたのです。これが、フエル・オン・ヒズ・フェイスとなったのです。

オールマイティという言葉の中に、神の顔が出ているのです。これが分からない。分からないから、神を義としないのです。神を義としていないから、生活の細かい所まで神を崇めることができないし、神を恐れることができないのです。ですから心から本当の平安を感じたことがないのです。

思春期とはどういうものか。神を知る絶好のチャンスです。年配の人は、もう一度、思春期の気持ちに帰るといいのです。そうすると分かるのです。

神はまず、肉体的な成長を与えるのです。十三歳〜十五歳くらいで、肉体的に大人になるのです。そうすると寂しさを感じるのです。それまでは、寂しさを感じません。

ところが思春期になると寂しさを感じるのです。何の寂しさかと言いますと、恋する心の寂しさなのです。恋というのは、寂しさをうめるための輝きです。

寂しさを感じ始めるのが思春期です。なぜ寂しさを感じるのかと言うと、肉体的に成長するからです。寂しさを感じるというのは、命についての欠陥を自覚するからです。なぜ自覚するのかと言いますと、肉体的に大きくなったけれど、精神的に大きな穴があることに気がついたのです。

その時、人間存在の原罪に向き合いだしたのです。恋を知るということは、罪を知ることです。思春期の実体は何かと言いますと、原罪の自覚なのです。

神がなぜ人間に恋する心を与えたかと言うと、自分のハートの寂しさに気付くためです。ハートがなぜ寂しいのか。人間のハートは神を求めているけれど、命が分からない。マインド(精神)がのさばって、ハートを押さえ込んでいるからです。マインドが岩のようになっています。

もともと素直な心の人であるなら、肉の欠陥に気付いて、それを捨てて、神に帰るべきだということに気付くはずです。

どのように気付くかと言いますと、人間は何のために生きているのか、世間の人は何を考えて生きているのか。生きていても、皆必ず死んでいくに決まっている。死ぬに決まっていながら、何を望みにして世界中の人が生きているのか。人間はとんでもない考え違いをしているのではないかということに、気がつくはずです。

人々はもっともらしい顔をしていますが、皆死んでしまうのです。学理、学説、伝説、知識と言いますが、皆死んだ人間が造ったものなのです。

人間は死んだ人間が残したことを、一生懸命に勉強しているのですが、これは一体何をしているのでしょうか。これに気がつくのです。これは真理に対する恋です。異性に対する恋より、真理に対する恋の方が重要なのです。

哲学も宗教も間違っている。もし宗教が間違っていなければ、親鸞はもっとましな人になっていたでしょう。日蓮も、もっとましな人間であったはずです。親鸞や日蓮を信じている人が、もっとましな人間になっているはずです。

宗教が間違っている証拠に、宗教を信じている人々が、人を憎んだり、恨んだり、騙したり、けんかをしている。これは親鷲や日蓮が、間違っていた証拠です。

この世界には、人々が全く知らない秘密があるらしい。人が全く知らない、何か大きな秘密があるに違いない。この秘密を知る以外に、人生の目標もないし、価値もないのです。私は人生に生き甲斐と価値を持たせるために、人間が何のために生きているのかという意味を、突き止めてやろうと考えたのです。全世界の、あるいは全宇宙の真理を探究するという大望を抱いたのです。これは本当の意味での大志です。

初恋というのは、ボーイズ・ピー・アンビシャス(boys be anbitious)の絶好のチャンスです。全世界六十二億人の責任を、自分一人で負ってやろうという、イエスに勝るとも劣らない度胸を持つのです。自分自身の利害得失というケチなことを考えないのです。世界の運命を自分の一身に背負ってしまうのです。そういう大望を抱くのです。

世間の人間は、誰も彼も、皆信用できない。全ての人間が何か見落としているもの、隠れているもの、何か取り違えている重大なことが、あるに違いない。

これは哲学にも、宗教にもないものです。もし哲学にあったなら、それを勉強している人々が死なないはずです。ところが、死ななくなったという人の話を聞いたことがありません。皆、死んでいくのです。死んでいくということは、失敗したことを意味すをのです。

二宮尊徳も、乃木将軍も、日本人の祖先は皆死んでいきました。皆、くだらない人ばかりだった。霊的に目覚めた人は、一人もいなかったのです。

一遍上人や空也上人は、少し評価できるところがあるのです。当時としてはそれでも良かったと言えなくもない。しかし、彼らは聖書を知らなかったので、本当の意味での空を見ることができなかったのです。

一遍上人、空也上人、親鸞、道元は、釈尊のように、明けの明星を見ることができなかった。もし親鸞が、もっと深くセックスの本質を突き詰めていくという、痛烈な探求心があったなら、明けの明星を見ることができたかも知れないのです。

神は卵を求める者には卵を与えるのです。パンを求める者に石を与えないのが、誠の神です。一遍上人にしろ、空也上人にしろ、親鸞も弘法も、最澄も、本当にパンを求めていなかったのです。ですから石を与えられて満足していたのです。日本人は石ばかりを求めていたのです。

日本人の祖先に、霊的に禄な人はいなかった。宗教ではない般若心経と言った人は、一人もいなかったのです。

思春期に、人間の命とは何かを考えさせられるのです。神はまず肉体的に人間を育てるのです。肉体的に人間を育てることによって、肉体人間の虚しさを、悟らざるを得ないように、仕向けているのです。これが思春期です。

そこで、思春期にどうしたらいいかと言いますと、肉に見切りをつけて、霊に乗り換えたらいいのです。思春期は、そうするための非常に貴重な時です。

本当の恋というのは、愛を愛することです。これが分からないのです。愛とは神です。神とは、人間が現実的に生きているその事柄です。皆様が、今日という日に生きていることが、愛です。これに目が開かれることです。これが本当のプラトニックラブです。

思春期は、肉の世界から解脱して、霊の世界に乗り移る、絶好のチャンスです。人々はこれを逃がすのです。

イエスは十二歳の時に、思春期を経験しました。その時、肉の親から霊の親に転換した。この世の親から、とこしえの親に方向転換したのです。

人間の一生は、重大な意味があるのです。セックスはそのチャンスになっているのです。肉から霊へのチャンスになっているのです。

人間が生きていて、神を見つけるということは、一番重大なことです。恋というのは、とても大きなことです。セックスは人間一代の中の一番大きいことです。人間一代の一番大きい問題の正体を捉えないままで、年をとってしまう。そして死んでしまぅ。愚かなことをしているのです。

初恋の時に、本当の恋を知りそこなったら、四十歳になっても五十歳になっても、あるいは七十歳でも八十歳でもいいですから、本当の恋をもう一度勉強⊥てみるのです。そしてこの世におけるセックスが、どんなに間違っているかを考えることです。

神を知るということは、そういう重大な問題が、含まれているのです。セックスは、現世の命から永遠の命に移る、非常に重大なチャンスです。

人間はこの世に生まれて、この世で育った肉体人間を、そのまま自分だと思っていますが、そう思わなければならない道理はありません。

人間の実体、実質は、肉体人間ではなくて魂です。魂は神にかたどりて造られたものです。五官の働きに、神を経験する性能を持っているのです。五官は、神を経験するためにあるのです。

例えば皆様の目が花を見るとします。それは何を見ているのか。花が咲いているというのは、神の命が現象的に現れているのです。神の命の在り方は、千差万別です。人間が見たり聞いたり、味わったりしているものは、全部神のマイテイ(mighty)の現れです。

しかも味わっている皆様の舌、見ている目、耳、鼻が、神のマイティなのです。ザ・マイティがザ・マイティを受け取っている。この世界で、神のマイティでないものは、一つもありません。従って、野球を愛する人は野球を通して、相撲を愛する人は相撲を通して、芸術、音楽、落語、演劇を通して、神を見ることができるのです。

マイティとは何か。御稜威、威光、輝きという無形の力です。これが有形的に現れている。これが神のご威光です。マイティの本質は永遠の命です。永遠の生命がマイティになって現れている。これが森羅万象です。

人間は何のために地球に生まれてきたかと言いますと、マイティを勉強しにきたの

です。それを勉強すると、神が分かるのです。

五官は人間の機能ではありません。神の機能です。神の機能が人間に植えられている。人間は神の機能を通して、神を勉強しているのです。

万物は、万物として展開している神です。それを勉強しているのです。人間は生きていることによって、神が分からなければならないように、できているのです。

マグロの味は、魚屋さんがつけたものではありません。牛肉の味は、牧場主がつけたものではないのです。牛は牧場で育てますが、味付けはできないのです。

皆様は、毎日、牛肉を食べたり、魚を食べたり、野菜、果物を食べています.が、その中にある味は、全てとこしえの命の味です。目で見たもの、聞いたもの、よく見て手で触ったものは、全て命の言葉です。人間は毎日、とこしえの命の実物を経験しているのですが、思いが肉です。肉の思いは、この世の人間の常識、知識のことで、この思いで見ているから分からないのです。

神が造った被造物の中で最高にすばらしいのは、女性です。女性はアダムが言ったように、肉の肉、骨の骨です。

人間はいろんな形で、見たり、経験したり、味わったりしている。人間は毎日、毎日、神を経験しているのです。一体何を考え違いしているのかと言いたいのです。

まだ分からない、まだ分からないと言っている。分からないのは、肉の思いで生きているからです。肉の思いを自分の命として、しつかり握りこんでいるからです。

肉の思いを捨てれば分かるのです。人間が生きていることの回りにあるものは、何もかも全部、神、神、神です。神ばっかりです。

人間はオーマイティ・ゴッドの世界に生きている。それなのに、自分がいると考えている。自分の思いを信じているのです。肉の思いを信じているから分からないのです。何というバカなことをしているのかと言いたいのです。

肉の思いを信じている霊魂は、たちまち黄泉へ行くことになるのです。黄泉に行った証拠に、肉の思いを信じると、すぐ暗くなるのです。行き詰まります。思い煩います。苦しみ、悲しみの思いでいっぱいです。客観的に見れば、私たちが生きていることは、そのまま神と共にいる(インマヌエル)というすばらしい事実です。衣食住を通して人間がしていることは、すばらしいことです。ものすごいことをしているのです。それなのに神が分からない。何と愚かなのかと言いたいのです。

特にすばらしいのは女性です。男性から見て、女性の味はどういうものか。全く奥義なる味です。それは一体どういうものか。男性は結婚する前から女性の味を知っています。女性を経験していない男性が、女性という最高の味を知っている。そこで恋をするのです。恋して結婚してみると、女性はつまらないものだと思うのです。

結婚する前に、女性を全然知らない男性が考えていたものは、骨の骨です。女性でない女性を見ているのです。あばら骨がとこしえの命になった女性を、見ているのです。これが男性の初恋です。ですから、高い値段をつけるのです。実際の女性の何千倍という値段をつけるのです。結婚してみると、こんなものかと思うのです。

これは女性が悪いのではなくて、女性の本当の味を、男性が知らないのです。しかし女性には、やはり高い値段をつける値打ちがあるのです。結婚する前に見ていた女性が、正札の女性です。それを肉の面からしか経験することができない。ですから安いものに見えてしまうのです。

女性はあらゆる被造物の最高峰です。バラの花やランの花より、もっとすばらしいのです。実は肉の思いで生きている女性は、本当の女性を知らないのです。本当のセクシイとはどういうものかを、知らないのです。セクシイとはとても高貴なものです。無限の深さと、無限の広がりを持っているのです。

世界の芸術家、学者、宗教家に、命が分かっている人が一人もいない、困ったもの

です。

命とは何か。生ける神の印を受けることです。生ける神のしるし、ザ・シール・オ

ブ・ザ・リビング・ゴッド(the seal of the living God)を額に受け取るのです。皆様

の脳細胞は百四十億あると言われていますが、これは神をインプットするための電子装置です。リビング・ゴッドをインプットするための電子構造です。

人間の前頭葉の皮質は何かと言いますと、思考能力の源泉です。百四十億の脳細胞の中の七十億を使える人があれば、非常に上等な人だと言われているのです。

聖書が分かってきますと、神のやり方が分かってくるのです。百四十億の中の半分は、肉の形に属している。後の半分は、霊の形に属しているのです。人間の思考能力は、肉が十二パート、霊が十二パート、両方併せて二十四人の長老になるのです。これについては黙示録で次のように述べています。

「見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた。また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた」(ヨハネの黙示録424)。

二十四人の長老とは、位の名称です三十四人いますが、二十四のパートでもあるのです。霊が十二のパート、肉が十二のパートです。皆様はこれを全部経験できるのです。全部経験した人が、実は本当の人間です。これを御座の回りの長老と言うのです。

人間は、十五、六歳までに、肉のパートを経験します。しかしこれだけでは何か頼りない気がする。そこで後の半分を知りたくなるのです。肉の十二のパートを全部経験したのではない。十二のうちの七か八を経験した。そこでセックスの段階を知りたいと思うのです。

セックスの段階というのは、音符で言いますと、ドレミファのファになるのです。セックスは半音階の音になるのです。肉にも通じるし、霊にも通じるのです。そこで、セックスを通してでなければ、本当の愛、本当の栄光、・本当の喜び、本当のすばらしさが、感じられないようになっているのです。

アダムには、最初、ドレミだけを与えた。それだけではどうしても神が分からないので、ファを与えたのです。そうすればソラシという霊が分かると神が期待したのですが、アダムはファを通してソラシに行かずに、逆にミレドとダウンしてしまったのです。これが陥罪という事件です。

セックスが、霊と肉の分岐点になっているのです。神はアダムに、野の花を見せた。太陽を見せても、山を見せても、どんなに美しい景色、見るに麗しく、食べるに良い、色々の木を見せても、さっぱり神が分からない。

そこで最後に女を見せたのです。アダムはそれを見て、私の骨の骨と言った。ファになったのですが、陥罪という事件によって、ミレドと逆戻りをしたのです。

脳細胞には、霊の七十億と、肉の七十億とがあるのです。霊の完全体と肉の完全体とが与えられているのです。

セックスは、肉から霊へ乗り越えていく、分岐点にあるのです。これを乗り越えるか、それに失敗するかによって、永遠の運命が決まるのです。ほとんどの人は失敗するのです。結婚すると、男性はほとんどだめになる。ですからパウロは、結婚しない方がいいと言っているのです。結婚という線を突破して、成功する人はめったにいないからです。これは非常に難しい分岐点です。

とにかく女性を抱いたらだめになるのです。肉の七十億専門になる。霊の七十億があることさえも知らないのです。肉の肉だけが分かって、骨の骨があることが、全然分からないのです。女性も女性です。今の女性は、肉の肉になっているからです。皆様はせっかくこの世に生まれていながら、人間のことを全く知りません。欲ばかり知っているのです。欲は悪魔が考えることで、人間が考えることではないのです。

人間のことを勉強して、勉強して、勉強し倒すと、全体の半分くらいは分かるのです。しかし霊の半分は全然分かりません。どんな大学者でも大宗教家でも、肉の七十億が全て働く人はよほど頭のいい人です。しかしそれでは、地獄へ行くのです。

知り尽くすことが救いです。知るということはただ理解するということではありません。肉の七十億は理解することだけでいいのですが、霊の七十億は信じるという方法によらなければ、分からないのです。

人間は聖書の話を理解することはできますが、信じることができないのです。信じ

ることができると、初めて、霊のパートが開かれてくるのです。

信じることはどういうことか。御霊を受けたことは、信じる足場を与えられたことになるのです。そこで、御霊を受けた段階から、前に向かって進むのです。そうすると、霊の七十億の内容が開かれてくるのです。

アブラハムは信仰の父と言われています。なぜ信仰の父と言われるようになったのでしょうか。これについて、聖書は次のように述べています。

「アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた」(創世記173)。アブラムは

ひれ伏したというところを英訳ではアブラムズ・フエル・オン・ヒズ・フェイス、アンド・ゴッド・トークト・ウイズ・ヒム(Abraham fell on his faith. and taked with him)となっています。日本語訳では、アンド・ゴッド・トークト・ウイズ・ヒムが抜けているのです。この意味が大きいのです。

トークト・ウイズ・ヒムとは、彼と一緒の気持ちで話した。彼と一つの気持ちで告げたとなるのです。こういう言葉があるのは、アブラム・フエル・オン・ヒズ・フエイスに原因があるのです。アブラム・フエル・オン・ヒズ・フェイスとは、神の御名の前にぶったおれた。神の御顔の前にへたばったとなるのです。

神は、アイ・アム・オール・マイティ・ゴッドと言った。アブラムは、私は全能の神であるという言葉を聞いた。アブラム自身の存在が、マイティの一つになった。

神は、ジ・オールマイティです。アブラムはザ・マイティです。ザという定冠詞は、現在、この場で、ここにという意味です。

神はジ・オールマイティです。現前における全ての全て、地球の全体の力、御稜威です。これは天皇以外に使ったらいけない言葉です。これはどういうことかと言いますと、とこしえの命が、肉の形で現れていること、世の基をおかぬ前の命、初めからあった命が、肉の形で現れていることです。

現在の現象世界は、死が割り込んでいる世界です。完全な命ではありません。ところが現象世界が造られる前の命は、まだ死(悪魔)が割り込んでいない命であって、完全な命、死なない命でした。

このとこしえの命が、神の力によって、今、森羅万象として現れているのです。これを創造と言うのです。

とこしえの命が、森羅万象として現れている力を、御稜威と言うのです。新約聖書では、栄光という言葉で現しています。神の栄光とか、栄光を神に帰せよと書いています。栄光とは何かと言いますと、御稜威のことです。

本当の命が、肉なる状態で現れている。例えば太陽が東から上がるという景色があります。いわゆるライジングサンです。これは命の本源の姿が、そのまま現れているのです。

しかし、太陽は永遠に存在するものではありません。太陽系宇宙は、いつかは消えてしまうものです。もちろん地球も消滅するのです。太陽も地球も、造られた物質です。これには耐用年数があるのです。

太陽系宇宙はできたものですから、やがてなくなるのです。太陽にも地球にも、耐用年数があるのです。ましてや、皆様の肉体には、耐用年数があるのです。永遠に存在するものではありません。

永遠に存在しませんが、永遠に存在するものが、永遠に存在しない形で現れている。無限無窮の命が、有限の形で現れている。これが現在の地球です。そこで太陽を見ると、太陽が上がっている姿には、とこしえの命の御稜威が、ありありと現れているのです。死なない命の御稜威が現れている。しかし太陽もやがて消えていくのです。

太陽は神の栄光を現しているけれど、神の栄光そのものではない。そこで、太陽を見て、ああこれは誠の命を現す形で現れている。肉なるものを通して、霊なる実質が表現されていると見なければならないのです。

肉なる(現象的な)太陽を通して、霊なる命の実体が表現されていると見なければならないのです。霊なる命が現れているところに、御来光を拝みたくなる原因があるのです。桜の花を見るのも、御来光を見るのも、同じことです。これを見ることができるのは、人間の精神力だけです。

そうすると、霊の眼が開かれて、今まで分からなかった霊を見ることができるようになるのです。霊なる太陽を見る。霊なる自分を見る。霊なる桜を見るのです。霊なる山の姿、霊なる川の流れを見る。全てを霊的に理解することができるようになるのです。

霊なる本性が、山の形で現れているのです。我、山に向かって目を上げるとありますが、山を見ているのではない。山という形を通して、神の御稜威を見ているのです。

肉眼は肉(現象)を見ているが、心眼は空を見ているのです。目はごちそうを見ていますが、心眼はおいしそうだということを見ているのです。味は見えないものですが、それを心眼は見ているのです。

人間が生きていることは、見たり、聞いたり、触ったりしているのですが、これが何をしているのかを、よく考えてみてください。人間は、実際命を無駄にして生きているのです。

イスラエルのために祈っている人は、必ず救われなければならない人ですから、自分の命のことをよく考えていただきたいのです。信仰によって生きるのです。信仰によって生きると、初めて、今まで働かなかった脳細胞が、働き出すのです。今まで見えなかったことが、見えるようになるのです。

肉の思いで生きている人は、霊の細胞が死んでいるのです。霊の眼を開いて神を見たいという気持ちがあって、御霊を崇めれば、本当のことが見えてくるのです。

皆様が生きているのではありません。神の命が、皆様と一つの形で生きているのです。皆様が生きているのは、ザ・マイティです。神はオールマイティです。ザ・マイティは、オールマイティに含まれてしまうのです。これがアブラムに分かったのです。

アブラムは神の前に平伏した。神の前に平伏したということは、アブラム自身に平伏したのです。

皆様は、自分の霊を神に渡さなければならないのです。霊を神に渡すということは、実は本当の自分が生き返ることなのです。霊を渡すと、本当の命が分かってくる、これを信仰と言うのです。

アブラムと神は一つになったのです。アブラムが平伏したというのは、アブラムが消えたということになるのです。情景を言えば、平伏したことになりますが、霊的な実体は、アブラムが消えてしまったのです。

神の顔がアブラムの顔になった。そこで神がアブラムにトークした。何をトークしたかと言うと、とこしえの約束を与えたのです。

ウイズ・ヒムとは、神がアブラムと共であったし、アブラムが神と共であった。アブラムから見れば、ウイズ・ヒムのヒムは神です。神から見れば、ヒムはアブラムです。神とアブラムは一体の形において、契約を与えた。

トークドとは、重大なことを宣言するということ、これが約束を与えたということです。これは深奥無双の光景です。そこで、アブラムにハという神が一つになって、アブラハムになったのです。

信仰とは、約束によって、神と私たちが一つになることです。世もなく、我もないただ主のみいますとなるのです。ただイエスだけがあるのです。ただイエスという絶対だけがあるのです。

イエスは六十四億人の代表者です。六十四億は、イエスが分散したものです。第三天のイエス・キリストは、六十四億の人間を集約したものです。イエスと人類は一つのものです。このことを、私たちは、全世界に向かって叫ばなければならないのです。

アブラハムと神が一つになって約束を与えられたという重大なテーマを、どうして

もイスラエルに伝えなければならないのです。

イスラエルの人々よ聞け。汝らはアブラハムの末である。神とアブラハムは一つになった。あなたがたは神に帰らなければならない。モーセの掟よりも、タルムードよりも、神御自身に帰らなければならない。こういうことを彼らが受け入れるまで、言い続けなければならないのです。


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