12死から脱出する

死から脱出しなければならない。絶対に死んではいけないのです。そのためには、死とは何かをよく知らなければいけないのです。

人間は死ぬのはいやだと言いながら、死とは何かを知らないのです。これがいけないのです。死には、第一の死と第二の死があるのです。

人間は現在生きていると思っていますが、なぜそう思っているのでしょうか。

ヨハネは次のように述べています。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言(ことば)について、このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである。」(ヨハネの第一の手紙l・l、2)。

人間はこの世に生れてきて何をしているのでしょうか。目で見ること、耳で聞くこと、手でさわること、五官が働いていることが生きていることです。五官の働きに、それぞれ意識が伴っているのです。目で見ていると、見ているという意識が伴うのです。聞いていると、聞いているという意識が伴っているのです。五官の一つ一つに、意識がついて回っているのです。

意識は般若心経で言いますと、眼耳鼻舌身となるのです。この五つの働きに、意識がついて回るのです。さわった時に、さわったという意識があります。見たら見たという意識があるのです。そのように、五官というのは、五つの意識を意味しているのです。五官、五意が、人間が生きている証拠です。これがあるから、私たちは生きていると思っているのです。

ところが、人間の五官、五意は、実は死んでいるのです。目で見ていると思っていますが、人間は肉の目で見ているのです。肉の目でとは、現象として現われた形だけを見る見方をいいます。現象としての形は見ていますが、その本質を見ていません。

目撃するというのは、よくよく見ることです。日本語の聖書では、よく見てと訳しています。よく見てという所を漢訳聖書は目撃してと訳しています。

見るというのは、ちょっと見るのと、じつと見るのと、じつと見て見極めるという見方があるのです。漫才で、「見て見て見いー」といっている人がいますが、これはじっと見て見極めるという方になるのかもしれません。

このように、見るということだけでも、三通りの見方があるのです。これをしっかり実行していきますと、物の本質が見えてくるのです。

食べる時も、むしゃむしゃと食べる時と、じつくり味って食べる時では、食べ方が変ってくるのです。じつくり食べると、自然に消化も良くなるのです。むしやむしやと食べてはいけないのです。とにかく三通り見る、三通り聞く、三通り味うという気持ちで生きていれば五官の意識が深くなっていくのです。ところが、見て見て見るという見方をしない。ちょっと見て終わりなのです。だから、見れども認めずということになるのです。認めるというのは、見極めることをいうのです。

地球ができる前の本当の命が、今現象になって現われている。これは太陽ができる前の命です。大宇宙ができる前、現在の宇宙ができる前にあった命、宇宙の根源になっている命が、今、地球現象という格好で現われているのです。

私たちは現在、地球現象を見ています。森羅万象を見ています。外側の格好だけは見ていますが、森羅万象が何なのか分からないのです。これが精神的に死んでいるという意味です。森羅万象の本質を見るだけの目がありながら、その本質を悟ることができていない。だから、死んでいると言わなければならないのです。

人間が現世に生れてきて、五官が働いているという点からだけ考えますと、生きていると言えるのです。ところが、五官が働いていながら、物事の実体が見えていない。これがいけないのです。

五官の働きは、人間に植えられた神の言です。人間に植えられた神の言(ロゴス)が、目となり耳となっているのです。現在五官として働いている言は、理性と言ってもいいのです。理性が五官の根本です。神の言、神の理性が人間に植えられている。だから、神が造ったものが分かるのです。

動物でも、言が非常に不完全な形で植えられています。動物でも神が造ったものが分かるのですが、それを認識することはできません。人間は認識できるのです。認識できるかできないかによって、魂があるかないかが決定されるのです。

動物が生きているのは魂ではありません。ただ本能によって生きているのです。人間の場合は、本能に認識する力が加わっている。そこで魂と言えるのです。

人間には現在生きているという事実があります。五官が働いているからです。ところが、人間の五官の働きは、上っつらだけの肉の感覚だけで見ている。初めからある命、神の言が見えていない。だから、生きていながら神が全然見えないのです。言が見えたら、神が見えるはずです。ところが見えていない。なぜでしょうか。

イエスは「心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう」と言っています(マタイによる福音書58)。心が清ければ神がみえるのです。人間の心は雑念によって汚れている。だから神が見えないのです。見えるはずの神が、見えないのです。衣食住において現われている神の姿が、全然見えないのです。神が見えないこと、命が見えないことは、死んでいる証拠になるのです。

五官が働いていながら神が全然見えていない、神が認識できない、これが死んでいる証拠です。

もう一つ死んでいる証拠があります。皆様の生活の中で、憎むとか、そねむ、焼きもちを焼く、ひがむ、嘘を言う、ごまかす、おべっかを言う、不正直になる、生きていることがいやだと思うことが、いつもあるでしょう。これが死んでいることです。

人を憎んだり、呪ったり、うらんだり、時には殺してやりたいと思うこともあるでしょぅ。これが死んでいる証拠なのです。すべて、苦しみ、悲しみがある人、重荷がある人は、死んでいることになるのです。

神がはっきり分からない。神が造ったものを見ていながら、神が分からない。心にいつも重荷を背負っていること、いやなことばかりがやってくるような気がすること、自分ほど不幸な者は世界中にいないと思うこと、人間がこの世に生きているのは、はっきり死んでいるのです。

毎日、毎日、重荷を背負っている。罪を造って生きているのです。不幸と不満と不安で→杯です。心からの喜び、平安、安心がない。これが死んでいる証拠です。

人間がこの世に生まれたのは、はっきり殺されたことなのです。肉体的にこの世に生まれたことは、死を経験するためなのです。死を具体的に経験させるために、神が人間を肉(現象世界)に放りこんだのです。

この状態から、絶対にぬけ出さなければならない。そうしないと、必ず地獄へ行かなければならないのです。

ヨハネは次のように述べています。

「海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の中に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた」(ヨハネの黙示録201314)。

死はすべて火の池に投げ込まれる。これが第二の死で、これが恐ろしいのです。永遠の裁きになるからです。

人間は現世に生きていて、不幸、不満、不安、苦しみ、悲しみが次から次へとおそってきます。生きていることがいやになるような事が、たえず沸いてくるのです。これが罪の下に売られている証拠です。

本当に生きているのなら、神の前に生きているのですから、喜びと感謝がいっぱいでなければいけないのです。常に喜べ、たえず祈れ、すべてのことを感謝せよ。いつでもこれがなければならないのです。

救いとは何か。死んでいる状態から出ることが、救われることです。死からはつき

り出なければならない。出ることができるのです。

死とは何か。死がはっきり分かれば、それから出て、命がはっきり分かるでしょう。ところが人間は、死んでいることが分からないのです。心配ごと、苦しみ、悲しみがあっても、しかたがないと考えているのです。しかたがないどころか、すでに死んでいるのです。

自分はこれからどうなるのか。自分の運命はどうなるのだろうか。女の人はいつも自分を意識しています。男性はずぼらですから、それを意識しないかもしれませんが、女の人はいつも自分を意識しています。これが死んでいる証拠です。

キリスト教の信者は、救われたと言っていながら、暗くなっているのです。人を裁いています。人の悪口を言っています。これはすべて死んでいる証拠です。山上の垂訓(マタイによる福音書五章〜七章)が、すかっと実行できなければいけません。山上の垂訓は一箇所実行できたら、全部実行できるのです。

神が現在人間を生かしていながら、心の持ち方が悪いために死んでしまっている。それは命を目撃していないからです。目の働き、手の働きの実体が分かっていないからです。

人間が見たり聞いたりしているものは、実はとこしえの命です。毎日、とこしえの命を見たり、聞いたりしているのです。一杯の水を飲んでも、とこしえの命を飲んでいるのです。

夏は暑く感じます。暑いと感じることが、とこしえの命を感じているのです。そう思って生きてみるのです。暑ければ暑いように、暑いということの内容をじっと味わうと、有り難く思えてくるのです。

食べる時は、かんで、かんで、良くかんで食べるのです。見る時は、見て、見て、見るのです。そうすると分かってくるのです。じつくり見るか見ないかです。じつくり見れば命が見えてくるのです。

暑さ寒さを経験できるだけでも、有難いことです。それをなぜ経験できるのでしょうか。それは神の言(ことば)が人間に植えられているからです。その機能によって、暑さ寒さを認識できるのです。だから人間は神の子です。

人間の肉体は存在していません。釈尊は今から二千五百年も前に、色即是空、目に見える現象的物体は、存在していないと喝破しているのです。一切空、肉体はないと言い切っているのです。これは、今から二千五百年も前の話、日本という国ができるはるか前の洞察です。

理論物理学では、物質は存在していない。電子等の運動が物質のようにみえるだけだと理論づけています。この理論を実際に応用して造られたのが、原子爆弾、水素爆弾です。物質は即ちエネルギーであることを実行したのが、広島、長崎の悲劇でした。

もし物質が本当に存在するのなら、広島、長崎の悲劇は、嘘になるのです。人間の肉体は存在していません。ただ新陳代謝がある。流れ動いているのです。少し真面目に、冷静に考えれば、肉体がないくらいのことは、誰でも分かるのです。肉体がなければ、肉体的な重荷、悩みを背負う必要はないのです。

肉の思い(人間の常識、知識)で生きていることは、死んでいることです。これをはっきり承知することです。これが分からなかったら、命は分からないのです。

なぜ神は人間に死を与えたのか。死なしめたのか。神が人間をこの世に送ったことは、殺したことになるのです。生れたことは死んだことです。実は、誕生日は命日です。なぜ神はこんな無茶なことをしたのか。

神は人間を殺したつもりでいるのに、人間は生れたつもりでいるのです。人間は生れたことがおめでたいことだと言って、誕生祝をしているのです。神と人間とでは、全く意見が違っています。だから、全然神が分からないのです。

神はなぜ人間を殺したのか。こういう重大な問題に対して、神はいつも考えるヒントを与えているのです。人間に悩みや苦しみがあるのはなぜか。悩みや苦しみを味っていることが、死を味っていることなのです。

神を賛美したり、神を喜んだりするはずの人間が、神を呪ったり、神に文句を言っているのです。これは人間に、死を与えている姿なのです。神はなぜ人間にこのような処置をしているのか。

人間に死を与えなければ、命が欲しいと思わないからです。おなかがすくから、ご飯を食べたいと思うのです。喉が渇くから水を飲みたいと思うのです。喉が渇いたと思わないなら、水を飲みたいと思わないでしょう。

空腹は料理人を名コックにすると言います。二、三日、何も食べなければ、どんな料理でも、飛び上がるほどおいしいと思うでしょう。

飢え乾くごとく義を求めるという言葉が聖書にあります。飢えたり、乾いたりするから、義を求めるのです。命を求めるのです。

簡単なことです。現世に生きていることが幸いから、救いを求めるのです。すべての人間を死の中に閉じ込めたのは、命を求めさせるためです。

命は求めなければ与えられないものです。なぜかと言いますと、求めないものに命を与えても、命の値打ちが分からないからです。

悪魔がそうでした。神は悪魔に、すばらしく輝く命を与えたのです。叡智にあふれるような命を与えたのです。ところが、悪魔は、それを嬉しいとも、有難いとも思わなかった。自分にそういう力があって、当然だと思っていたのです。

初めから大金持ちの家に生れた子供は、お金の価値、生活の苦労を全然知らないでしょう。お金は有難いものだということが、分からないのです。あって当り前だと思っているからです。

だから神は、命のありがたさを知らせるために、人間にまず死を与えたのです。死を十分に味わうことが必要だからです。死から命に転換するためにはどうするか。死にきることです。死にきってしまえば、命になるのです。死をもって、死を滅ぼすために、死にきってしまうのです。悩みや苦しみがあると思う人は、悩みや苦しみに徹底することです。悩みのどん底まで行ってしまうのです。そうすると、命に向かうことができるのです。

次から次へと不幸が襲ってくる場合は、とことん不幸を味ってみようと度胸を決めるのです。そうすると、不幸をつきぬけてしまえるのです。

深い淵のある川にはまったら、あわてたらいけないのです。黙ってはまったらいいのです。息を止めて、沈む所まで沈んだらいい。すぐに浮くに決まっているのです。浮いたら、助けてくれと言えばいいのです。それを最初から浮こうと思うから、かえって溺れて、死んでしまうのです。水を飲まなければ、絶対に死ぬことはありません。

人間に苦しみがなければ、楽しみや喜びは分からないでしょう。死を味わなければ、命を求めようとしないのです。おなかがすかなければ、ご飯を食べたいと思わないでしょう。これは全く簡単なことです。

生きていることが苦しいと思ったら、それを感謝するのです。苦しいという気持ちがあるから、命を求めるチャンスができたのです。

苦しいと思うことは、命を求めるチャンスだと思えば、必ず救われます。苦しみを与えた神の御名をほめるのです。苦しみを与えられたことを、感謝するのです。いやなことを、感謝するのです。これを実行すると、霊魂の状態が、必ず変わります。正直に死を味った者は、必ず命を与えられるのです。

人間は本当は、苦しまなければならないほど悪いことはしていないのです。嘘を言ったり、焼きもちを焼いたりした。これは大した罪ではない。ところが、やっぱり心に重荷があるのです。暗くなるのです。悲しみや苦しみがたえずあるのです。その時、そういう悩みがあることは、神は私に、喜びや悲しみを与えるためだと考えたらいいのです。

そうすると、与えられている苦しみや悲しみが、感謝に変るのです。こういうやり方をするのです。そうすると、常に喜んでいられるのです。暗かったら、それを喜んだらいいのです。悲しかったら、それを喜んだらいいのです。

嬉しい事を知らせるために悲しい事をまず経験させるのです。苦しい事がなければ、嬉しい事はあるのでしょうか。年がら年中、朝から晩まで、楽しい事ばかりだったら、楽しみぼけになって、楽しみが苦痛になるでしょう。楽しさが、さっぱり分からない人間になるのです。

苦しいから、楽しい事が分かるのです。苦しい事を感じる暗があったら、神は私たちに、楽しさ、嬉しさを与えるためだと思ったらいいのです。そう考えたとたんに、苦しみが楽しみに変ってしまうでしょう。ヤコブが言っています。「苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」(ヤコブの手紙49)。だから、悲しみがある方が得です。苦しんだ方が得です。楽しんでいる時は、それ以上の楽しみはありません。楽しんでいる人は、神は放っておきます。救いを与える必要がないから、ほったらかしにしているのです。

苦しんでいる人、悲しんでいる人は、救いを求めざるを得ない。だから、楽しさ、

嬉しさが与えられるのです。

人間は、殺さなければならないほど悪いことをしていません。それなのに、苦しみや悲しみを与えているのは、死を味うことによって、命の方へ向けさせようという、神の計画なのです。

これが分かったら、苦しんだり、悲しんだりして、生きていく必要はありません。苦しみや悲しみを、楽しみに変えたらいいのです。

苦しみを与えられたことを感謝したら、命が分かってくるのです。神は命を求める者に、必ず命を与えるからです。

神は人を生かし、救うために、死なしめたのです。生かすために、殺したのです。これが有難いことなのです。

人間は現在、神に生かされています。自律神経が働いていることは、神に生かされている証拠です。自律神経はどのように働いているのか。脊髄が自律神経の基本になるのです。脊髄の上は延髄です。延髄は大脳につながっています。大脳細胞は、五官につながることが中心になっています。

大脳が延髄につながっています。延髄が脊髄につながっています。脳で考えることが、延髄を通して脊髄に伝達される。脳で楽しいと感じますと、脊髄にそれが送られてくるのです。脊髄神経が非常に健康的に、円満に働くのです。そうしますと、胃腸の状態、心臓の状態、肺の状態が良くなるのです。従って、常に喜べ、たえず祈れ、すべてのことを感謝せよということが実行できるのです。

すべて、与えられた条件を、楽観的に見ていくのです。これが恵みを数えるというのです。こういう生き方が上手になると、生きていることが苦しいことではなくなるのです。苦しいことが、楽しい事になるからです。

脊髄が命です。関節は働きです。聖書の言葉を良く読んでいきますと、関節と脊髄との関係が分かってきます。精神と霊魂が分けられるのです。関節と脊髄が分けられるのです。心の思いと志が分けられるのです。

精神と霊魂は何の関係もありません。苦しい、悲しい、幸いと思うのは精神です。精神の方に気をとられていると、いつまでも思い悩まなければならないのです。精神の方をやめて、霊魂の方に目を向けるのです。そうすると、苦しみが消えてしまい、楽しいことばかりになるのです。

霊に従って歩むというのは、自分の精神状態を見ないで、魂の方を見ることです。実例を言いますと、仕事をしてもうまくいかない。聖書を読んでもさっぱり信じられない。神の恵みから落ちたのではないかと思えるのです。これが精神の方です。聖書を読んでも全然開かれないので、暗くなる場合があります。これは精神の方へひっぱっていこうという悪魔のやり方です。

開かれようが開かれまいが、聖書は、神の言にきまっていますから、私に開かれなくても誰かに開かれるのです。気持ちを精神の方に向けずに、魂の方にもっていくのです。そうすると聖書六十六巻が、自分の中に入ってしまうのです。開かれようと、開かれまいと、聖書は聖書です。

聖書は分かると決めてしまうのです。そうすると、いつか聖書が開かれるのです。精神と魂は関係がありません。精神が暗かろうが、落ちこんでいようが、そんなことには関係がない。精神の言うことを、いちいち聞く必要がないのです。

魂は神に属するものです。精神は人間に属しています。人間の方を考えるからいけないのです。神に属する方を見ていくのです。

神は恵みを与えるために、苦しみを感じさせているのです。だから苦しいと思う時には、必ず楽しさがくることを期待したらいいのです。そうすると明るくなるのです。関節は命の働きです。脊髄は命です。関節の方に目をつけないで、脊髄の方に目を向けるのです。手足がなくても、脊髄があれば、生きているのです。

現世の生活状態はすべて関節です。ところが魂の状態は脊髄です。脊髄がだめになったら、死んでしまいます。考え方の基本を訓練するのです。そうすると、生きていることがそのまま神の国に生きることになるのです。

現在私たちが生きている世界には、初めからあった命の言が現われていますから、これは神の国なのです。水が冷たいことが神の国です。夏が暑いことが神の国です。私たちは神の国を経験しているのです。

まず神の国を自分で経験して下さい。そして、自分が神の国を造るのです。自分一人が明るくなると、その周囲が明るくなるのです。それがだんだん広がっていったらいいのです。信仰とはそういうものです。

肉の思いで生きている人は、死んでいるのです。死んではいますが、一方、神に生かされているという面があります。テレビ、クーラー、パソコンがあります。家の中には電化製品がたくさんあります。車や電車、船、飛行機で行きたい所へ行けます。

通信手段によって、世界中の人々と話ができます。春夏秋冬に折々の花が咲き、山の幸、川の幸、海の幸と、私たちは食べたいものが食べられます。これがすべて神の助けです。肉の思いばかりで生きていたとしても、なお現世にいる間は死んでいるけれども楽です。死んでいると言われても、大したことはないと思うのです。

第二の死とは何か。神に生かされているという面がぴたっとなくなるのです。苦しみばかりになる。これが火の池です。

肉の思いで生きているという第一の死の間は、まだ神の命が相当働いていますから、生きていると思えるのです。霊魂の位としては死んではいるけれど、命の味わいが少しずつあるのです。刺身も食べられるし、おいしい果物も食べられるのです。お酒もビールも飲めるのです。

火の他にはこういうものがありません。喉が渇いても、ビールどころか一杯の水もありません。本当の死とは何かを見せてくれるのが、第二の死です。これは震え上がるほど恐いものです。それが永遠に続くから恐いのです。

生きている間に、苦しみ悲しみの意味が分かった人は、もう地獄へ行かなくてもいいのです。だから、現世で、じっくりと、苦しみ、悲しみを味わったらいいのです。


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