13なぜ人生に苦しみ、悲しみ、矛盾があるか

仏法で言っている法というのは、現世における諸存在、諸現象、諸意を言っているのです。現世におけるという条件があるのです。これが法の世界です。法が現世を構成しているのです。来世になると、法の外になるのです。

釈尊は明けの明星を見て、大悟しました。明星の世界を彼岸ということになりますと、現世の法は一切関係がなくなるのです。

ところが、現世における人間の悟りを法と見ますと、明星の世界を意識しないで、現世の大乗仏教の極点を悟りだと考えますと、彼岸も法の一つになります。人間の意識の中の一つになるのです。

明星を取り上げて考えることになりますと、法と関係がなくなるのです。すべて仏法は、人間の側から考えているのです。法といっても、彼岸といっても、人間の側から出発しているのです。人間の側からを考えない仏法はありません。

聖書に限って、神の国を説いているのです。これは仏法にはないのです。般若心経は人間の側から見た平安を説いています。自分を捨ててしまいますから、不安の種はなくなるのです。聖書が示しているのは何かです。聖書には明瞭に規定された救いがあるのです。イエスが山上の垂訓で提唱されているように、綻の一点一画も軽んじることが許されないという厳しいものがあるのです。学者、パリサイ人の義に勝る義でなければならないとか、とこしえの岩の上に家を建てるという誓を言っているのは、このことを言っているのです。

とこしえの岩の上に家を建てるということは、絶対の上に家を建てるということです。絶対は一つしかありません。救いも一つしかないのです。狭き門より入れというのも、これと同じことを言っているのです。

新約聖書が示す所は、一つです。信仰は一つ、主は一つ、バプテスマは一つです。救いももちろん一つです。

仏法は十八通りの無があると考えています。それも釈尊を批判した結論です。いわゆる如是我聞を原則にして考えれば、良いことは良いなりに、悪いことは悪いなりに、正当であることになるのです。そうするための決め手がなくてもいいのです。仏教学者が言うように、決め手がないのが仏法の特徴だという無責任な放言ができるのです。

仏法には、空をはっきり確認するという鉄則はありますが、それが厳しく言われていないから、決め手がないことになるのです。

空の実体が何かが、分かっていないのです。色即是空というけれど、これが概念になってしまっているのです。本当の空は何かという規定を行っていませんし、行わなくてもよいことになっているのです。ところが聖書はそうではい。はつきり規定しているのです。

般若心経が言うように、心無塁擬、無塁擬(心にわだかまりや、さしさわりがないし、心に暗いものがない)にならなければいけないのです。心に差し障りがないし、生活にも一切障りがない。これは自分が存在していないということです。無有恐怖、離一切転倒夢想(いろいろな恐怖がなく、一切の顛倒した気持ちから、遠くはなれてしまう)になってしまわなければいけないのです。これは乱暴で、無鉄砲かもしれません。これは天国を激しく攻める一つの典型を示しているのです。

聖書は、本当の人間とは何かを教えています。イエスは、もろもろの人を照らす光として、この世に来たのです(ヨハネによる福音書19)。人の光として現われたのです。人を照らす光とは何かということです。

「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」(同14)とヨハネは言っています。命が人の光であった。これが今の人間には、全然分かっていないのです。

人間は自分の命に対して、非常に不熱心です。今までの自分の経験には熱心ですが、肝心要の命については、非常に不熱心です。だから、現前、プレゼンス(presence)が分からないのです。命とは何か。これを具体的に言いますと、ザ・プレゼンス・オブ・メン(the presence of men)です。これが命です。ザ・プレセンス・オブ・メンにおいて、人の子を言い現わせ。そうでなければならないと言っているのです。

皆様は自分自身のプレゼンスを見ないで、自分自身の過去を見ているのです。自分のプレゼンスを見れば、自分の命が自分の光になる。これが分からないのです。

人間の命が人間の光になることを、イエスは現わしに来たのです。もろもろの人を照らす誠の命が、もろもろの人の中にあるのです。誰も、自分の命が光になるとは知らないのです。これが自分の光でもありますが、神の光でもあるのです。宇宙を貫くすばらしい光になることを、証明するために、イエスはやってきたのです。

自分の命が自分の光になることに気がついて、自分自身のザ・プレゼンス(the presence)を見はじめることができた人を、ザ・マン(the man)というのです。それまでの皆様は、ア・マン(a man)です。人間はア・マンではあるけれど、ザ・マンではないのです。自分の経験を問題にしている人は、すべて肉の人間であって、具体的な実体を意味しないのです。

固有名詞の人間は嘘であって、生きているということだけが本当です。

ヨハネは言っています。「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(同145)。

パウロ以後、この言葉が明確に説かれたことがなかったようです。この箇所は絶対的なポイントです。新約聖書が何を言おうとしているかについて、唯一のポイントを、正確、明瞭に、的確に説いているのです。これが分かると初めて、皆様はザ・マンになるのですり

現在の世界の人間は、ア・マンであって、ザ・マンではないのです。一人の人間としては生きているけれど、これこそ本当の人間だと言える生き方をしていないのです。

神が公認する人間は、ザ・マンだけです。これはプレゼンス・オブ・メンを意味するのです。人間の現在、現前を意味しているからです。

皆様は自分の気持ち、自分の現在の心境を、自分の信仰だと思っています。これは悪い癖です。

神の信仰を持てと言っています。なぜ神の信仰を自分の信仰だと思わないのか。自分が到達した信仰で、自分が満足している。それは自分が経験しているレベル、神がその人に許している信仰のレベルであって、これは皆様自身の信仰とは違います。

自分の信仰によって、自分の魂を弾圧しているのです。バカなことをしているのです。信仰とは何か。聖書はヒヤブ・フェイス・イン・ゴツト(have faith in God)と言っています。神において信じること、神の信仰を持てというのです。イエスは自分の信仰を持っていなかった。自分の信仰の限界を全然問題にしていなかったのです。生かされているということだけはありました。これが命です。この命がイエスの光になったのです。

生かされているということは、神の信仰の現われです。これをイエスは受け取っていたのです。だからイエスは、神の信仰を持てと言っています。日本語訳では神を信ぜよと訳していますが、これは正確ではないのです。

人間の思想は、しどろもどろです。ザ・マンを正確に話しても、全く聞かない人が多いでしよう。特に日本人は、全く聞く耳を持たないでしよう。それでも、神の国が成就するために、神の国がすでに地上に来ていることを述べ伝えるために、私たちは福音を伝えなければならないのです。

神の国はこの世とは違います。従って、神の国を宣べ伝えても、分かる人はほとんどいないでしよう。いなくてもかまわないのです。いなくても、神の国を宣べ伝えなければならないのです。

なぜかと言いますと、神の国を宣べ伝えれば、天使には聞こえます。天使に聞こえたら、神の国を宣べ伝える者が現われたことが、天に響きます。それがやがて、地球の運命に重大な影響を及ぼすことになるでしよう。

人々が聞いていても聞かなくても、そんな事に関係なく、福音を伝えなければならないのです。

たとえ私たち自身が十分に分かっていなくても、ザ・マンを宣べ伝えなければならない。エホバかく言うと、神が言うとうりに言ったら言いのであって、キデオンがそうでした。イザヤも、エレミヤもそうでした。旧約の預言者のように、エホバかく言うと告げたらいいのです。

自分の信仰がそこまで行っていなくてもいいのです。イエスが主であると言ったらいいのです。自分自身の力量とか、自分の業を問題にしなくてもいいのです。神の信仰を持つのです。心を騒がしてはいけない。ヒリーブ・イン・ゴツト(bel訂veiコGOt)いいのです。神において見て、神において言えばいいのです。自分において発言する必要は、少しもないのです。

人間の歴史が始ってから、六千年にもなりますが、イエス以外にザ・マンはいないということは、驚くべき事実です。

仏法で、無量寿、無量光と言いますけれど、概念としてはあるのです。無量寿、無量光が、体をもって生活するのでなかったら、それはただの寝言にすぎないのです。

 神はザ・マンしか人間として認めていません。それ以外は、人間ではなくて原罪動物です。晴乳動物の一種にすぎないのです。晴乳動物の一種である人間と、神の子であるザ・マンとは全然違うのです。私たちは、神の信仰、神の力、神の叡智、神の愛を基準にすべきであって、自分のぁり方を基準にする必要がないのです。

 神を信じるのです。心を騒がせずに、神を信じるのです。神のレベルが自分のレベルであると考えるのです。

 分かるから信じるのではない。信じたら神の栄光が現われるでしよう。知ったら栄光が現われるのではない。ヤコブは信じる者に栄光が現われると言っているのです。

 神を信じている者は、ザ・マンです。神を信じている者は、神を義としているのです。神を義としている者は、神に義とされるのです。神を義として下さい。そうすれば、その人は必ず神に義とされるのです。神に自分を渡してしまえば、その人は神に義とされるのです。

 義とするというのは、相手が非常に正しくて、間違いがないと思うからです。その人には、自分の雷渡してしまうべきです。自分の愛を神に渡してしまえば、今までの自分は消えてしまうのです。その後ろにいるのは、生ける神の子であるリビング.ソールです。生ける神の子であるリビング・ソールは、自分とは何の関係もないのです。

 分からなくても、聖書にそう書いてあると言えばいいのです。その所を説明して見よと言われたら、その時、上から必ず光を与えられるでしよう。思いもよらないことを言わされるのです。

 これはイエスが荒野で経験したことです。石をパンにしなさいと悪魔に言われた。その時に適当な言葉がすっとでてきたのです。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」。「主なるあなたの神を試みてはならない」という言葉は、イエスが前もって考えていたのではありません。聖書のどこにあるか分からないような言葉を、ぽつと上から与えられて、すっと言わされたのです。

 その次に、高い山につれていかれた。これらは皆、突発事件です。それに対して、最も適当な言葉によって、悪魔をやっつけているのです。これが神のやり方です。自分の霊を、黙って神に渡したらいいのです。理屈は一切いりません。我父にあり。これだけでいいのです。これだけが、自分の命です。どんな偉い人が、どんな理屈を言っても、彼らは死ぬ人間の理屈を並べているにすぎないのです。ザ・ンの意見ではないのです。どんな理屈で攻められても、自分の霊を神に渡していたら、私たち自身がザ・マンであることにかわりがないのです。

 教理も、神学も、哲学もいりません。命が光である。ただこれだけでいいのです。言に命がある。この命は人の光である。これだけでいいのです。

 命は人の光である。この言葉を自分のことだと信じられた人は、始めて闇から出た人なのです。まだ闇にいる人は、この言葉が分からないのです。命が人の光であることが分からない人はヾ暗きにいるのです。自ら暗きにいることを告白しているのです。

 暗きはそれを悟らなかった。悟らなかったというのは、おもしろい言葉です。悟るというのはアプリヘンド(apprehend)という言葉を使っています。アプリヘンドは、つかまえる、理解する、納得するという意味です。闇はそれができなかったのです。

 人間が、何十年間、この世に生きていたという気持ちが、ザ・ダークネス (the darkness) です。人間が何十年間生きていたという事実はありません。なのに、五十才だ、六十才だと考えている。こういう考え方がダークネスです。人間の生理機能は、瞬間、瞬間、働いているのです。時間は瞬間しかないのです。自分がいる。自分に年齢があると考えている人は、全部ダークネスに捉われているのです。

 人間はこの世の習わしを通過してきた。それを承知しているのならいいのです。こういう考えは、社会通念です。それを自分の記憶としてたくわえている人は、自分をしきりに主張します。これは、ザ・ダークネスに押さえこまれているのです。これをはっきり切ってしまうのです。

 人間が生きているライフ(life) は、ただの命です。ザ・ライフとは違います。ただのライフで生きていた人は、とこしえの命があると言われても、自分に関係がないと思うでしょう。ザ・ライフを知ろうともしません。私たちはザ・マンであるために、ザ・ライフを人々に提唱すべきです。ザ・ライフは、理解とか判断とか、自分の満足に関係がありません。

 ザ・ライフとは何か。太陽が輝いているのが、ザ・ライフです。太陽は意識していませんが、たんたんとしてザ・ライフを現わしているのです。これを受け取ったらいいのです。

 人間は、死ぬ命しか知りません。こんなものは、ただのライフです。命と言えるものとは違います。ただ生きている格好だけがあるのです。

 野放図で神経質で理屈は言いますけれど、真心を持たないのが日本人です。理屈は知っていますが、考え方が無責任です。

 現世の人間の考え方の正体は、悪魔です。これと闘うのです。私たちの言うことを了得しない人はしかたがありません。私たちは全力を尽くすべきですけれど、この末の時代に、私たちの言う事に心を開いて受け取る人は、少ないでしょう。とても少ないかもしれません。

 これについて、神は私たちに、責任を問おうとは決してしないでしょう。私たちはどうしてもイスラエルに福音を伝えなければならないのです。イスラエルに福音を伝えるために、まず日本人に伝道していくのです。日本人にイスラエルに福音を伝えなさいと、話をするのです。今の人間は、本当の人生を経験していません。人生の本当の楽しみを知らないのです。人間が生きていることの、本当の喜びを知らないのです。

 女性はア・ウーマンを知っていますが、ザ・ウーマンを知らないのです。ザ・ウー マンである女性は、一人もいないのです。

 男性もその通りです。ア・マンは知っていますが、ザ・マンを知らないのです。ザ・マンがあればザ・ウーマンはありますけれど、ザ・マンがない場合は、ザ・ウーマンはいないのです。従って男女の交わりといっても、本当の意味が分かっている人は、一人もいないのです。

 人間が経験しているすべてのことは、全部偽りです。人間は知るべきものを知らずに生きているのです。かわいそうなものです。

 変貌山のイエスがザ・マンです。その時、モーセとエリアが一緒に現われたのです。こしーはモーセは綻を代表する言でした。エリアは預言を代表する言でした。綻と預言者です。これとイエスが一つになっているのです。

 この世に生きていない気持ちで生きるのです。イスラエルに、ちり灰に伏すことを教えるのです。ちり灰に伏すということは旧約聖書にたくさん書いていますが、イスラエルはそれを経験していないのです。今までの自分の生活が全く間違っていたということを、つくづく知ることが、ちり灰に伏すことなのです。神をほめても知らん顔をしています。神なんかあるもんかとけなしても、知らん顔をしています。これが神の安息です。神の安息というのは、恐ろしい事実です。冷然たる事実です。

 神はじっと見ているのです。神の冷然たる安息に気がついて、自分自身も又、冷然たる安息に入ることができる人だけが、救われるのです。救われるのは、この人だけです。

 自分自身の思いに対して、冷然とするのです、神の側に回るのです。文句を言って分かる人には、文句を言ってもいいのですが、分からない人には黙って放っておくのです。そうすると神の気持ちが分かるのです。自分の気持ちを自分が口に出さないのです。

 我父にありというのが、山上の垂訓の基本姿勢です。父の御心を行うもののみ、天国に入るとあります。父の御心は、絶対安息です。絶対安息に同調するのです。自分の意見、自分の資格、自分の経験を一切言わないのです。

 私たちは安息を学ぶために、この世に生れてきたのです。神は人間を造った後に、安息してしまった。何に委ねて安息したかと言いますと、自然法に委ねたのです。又は、約束の流れに一切を委ねて、黙って見ているのです。

 全く沈黙して、見ているのです。神が黙って見ているから、神の方から進んで何かを教えようとはしないのです。私たちが求めると、与えてくれるのです。神の方から、ああしなさい、こうしなさいとは一切言わないのです。

 そこで求めよと言っているのです。求めれば与えられるのです。求めないものには、与えられないのです。

 求めれば必ず与えられる。これは安息の反則とは違います。求めているから与えているのです。しかも、求めるものに対して与えられるのは、父なる神ではなくて、御霊の神です。これは神の安息に関係がないのです。

 神は積極的に自己を主張しようとは、全く思いません。神は自らここにいるとは、一切言わないのです。これが神の安息の大原則です。

 そこで皆様も、同じように神の安息に同調しなければならないのです。自分の権利を主張することを放棄するのです。ましてや、自分の欲や得を主張することをやめるのです。一切任すのです。任して損をしても、それが父の御心だと思えばいいのです。

 上等のメロンを食べますと、言うに言われないおいしさがあります。栄養といい、香りといい、すばらしいものです。それは口に対するものではなくて、霊魂に対する神の処置です。肉体のためではなく、魂のためなのです。

 実は、五官の働きは、魂の機能です。肉の人間の機能とは違います。そこでイエスは、あなたがたの目が正しければ、全身が明るいであろうと言っています。本当に吾が何を味わっているかが分かれば、おまえたちは、永遠の命が分かると言っているのです。本当の霊の喜びは、命を食べる喜びなのです。命を見る喜びです。

 命の言葉を聞く喜びです。これを経験しようとしないで、今までの自分のア・マンの生活、肉の生活が自分の生活だと思っている人は、必ず思い悩みがあるのです。必ず不平不満があるのです。かたくなや、不信仰があるのです。人の中に不平不満、不信仰があるのは、偽りの人生である証拠です。

 五官は本当のものを見ています。魂の糧を見ているのです。イエスが生きている世界には、命の糧があったのです。ユダヤ人が生きている世界には、肉体の糧はありましたが、命の糧はなかったのです。

 イエスの言は、そのまま生ける命の水になったのです。イエスの言を聞いて水を飲めば、永遠の命を飲んだと同じことになるのです。その水に、とこしえの命の味があることが分かるのです。これを知るためには、霊を渡すことが必要です。自分の人生を自分で握らないことです。

 神は人を牧することを、一番喜んでくださるのです。だから聞いても聞かなくても、渾身の努力を振って、人々にキリストの言葉を説かなければならないのです。そのために、まず、キリストの言葉に生きるべきです。変貌山の秘密を、神は教えて下さったのです。これ以上の秘密はありません。信仰的に変貌山の状態に行くのです。それで求める道程は終わりです。往相はこれで終わりです。

 変貌山が往相の焦点です。焦点は終点です。ここまでいかなければ、本当の喜びはありません。ここまで来て始めて、来るべき所まで来た事が分かるのです。自分がザ・マンであることが分かるのです。そこで還相になるのです。

 ザ・マンになれる人は六十四億の人類の中で、ほんのわずかしかいないでしょう。これを目指している人は、神の宝です。自愛して頂きたいのです。

 死とは何かを原理的にお話ししておきますと、人間の霊魂はこの世に出た時に、肉なる者として罪の下に売られたのです。肉なる者とはどういうことかと言いますと、現象を実体と考える気持ちの事です。神は現象を実体と考えるセンスを人間に与え、この世に追い出したのです。

 現象を実体と考えるセンスというのは、悪魔のセンスです。悪魔のセンスをそのまま人間に与えた。これが原罪です。原罪の虜となった状態で、この世に送ったのです。

 ところが悪魔は肉体を持っていません。従って、現象世界(肉の世界)にいても、悩み、悲しみ、苦しみを一切感じないのです。だから、悪魔は肉の気持ちを持っていても、矛盾を感じないのです。けろっとしているのです。

 悪魔は、闇が淵のおもてに座ったことを本拠にしていますから、淵のおもてしか見ることができません。淵のおもてにいることが、悪魔にとってはあたりまえなのです。悪魔は矛盾を感じていますけれど、悪魔が感じている矛盾というのは、神の経論に対する矛盾であって、彼自身の苦しみ、悲しみはないのです。肉体を持っていないからです。

 しかも悪魔は、肉の世界(現象世界)が、委ねられている。悪魔は、すべての天使を治める天使長です。時間、空間が天使ですから、悪魔はこれを治めることを許されているのです。彼が淵のおもてにあったことを、聖書が認めているのです。聖書が認めているような状態で、彼は淵のおもてに座っている。今でも座っている。それをあたりまえだと思っているのです。

 従って悪魔は矛盾を感じません。現象を実体とすることに、何の矛盾を感じません。感じない所か、彼は天使長として、現象世界を造ったのです。

 悪魔が現象世界を造ったのです。現象世界という形で命が現われなければならないと主張したのは悪魔です。悪魔の主張通りになった。だからこれに対して矛盾を感じるはずがないのです。ただ自分自身がキリストにならないだけです。彼はけろっとしているのです。

 ところが、悪魔は、見えるもの(現象)は、現われていないものから出てきたということを考えようとしない。これを肯定しょうとしない。そこで、現存在に対する基本的な概念はありますが、これは彼自身の存在の本質に関するものであって、彼自身の悩みにはならないのです。ですから悪魔は、肉の思いを、何万年も、何億年も持っているのです。

 ところが人間はそうはいかない。肉体を持っているのです。肉体を持っていますから、肉の矛盾が、毎日毎日、襲いかかってくるのです。肉の矛盾を毎日、満喫させられるのです。そこで、この世に住んでいることが、苦しくて、苦しくてかなわないのです。ちょうどユダヤ人の屋根の上のバイオリン弾きみたいなことになるのです。

 バイオリン弾きのユダヤ人の妄は、この世に住むべき家族ではない。天に住まなければならない家族です。ところが、この家族は天に住まなければならないという自覚を持っていないために、ロシアでつつかれてアメリカへ行く。アメリカでつつかれてアイルランドへ行く。あちらこちら世界を流浪することになる。彷捏えるユダヤ人になるのです。

 ユダヤ人は現世に生きていてはいけない。神の国に生きるべきなのです。ところが神の国に生きなければならないことが分からないので、現世に生きなければならないのです。居住についての根本的な誤謬があるのです。

 ユダヤ人は神の国に生きるべき民族です。ところが、現世に生きようとしている。ここにバイオリン弾きの根本的な悲劇があるのです。

 それと同じように、聖書を勉強している人は、神の国に生きるべきなのです。天に生きるべきなのです。ところが、現世に生きなければならないと考える間違いがあるのです。

バイオリン弾きは、この世にかじりついていなければならないと考えていたから、彼は苦しんだのです。この世に生きるべきではないというこの簡単な原理に気づきさえすれば、その間違いを直すことができるでしょう。そうして、この世に生きていながら天に生きる方法がすぐに分かるでしょう。

 その方法とは何か。父の御心を行ったらいいのです。父の御心を行うとはどうすることか。安息することです。これだけでいいのです。簡単明瞭です。父の御心は、安息することです。一切文句を言わないのです。黙って安息したらいいのです。条件はこれだけでいいのです。安息しさえすれば、天国に入れるのです。

 父の御心を行う者のみ天国に入るとイエスは言っています。大変難しいことのように思えますけれど、何でもないことです。安息したらいいのです。自分の業を休んだらいいのです。山上の垂訓全体は、安息ということでかたがつくのです。安息でかたがつかないものは、一つもありません。

 そのように、ユダヤ人も私たちも、現世に生きるべきではないのです。ところが、現世に生きよう、生きようという気持ちがあるのです。

 だいたい霊魂は、現世で生きるべきではない。初めから神の国に生きるために、この世にきたのです。霊魂は罪の下に売られています。罪の下に売られるという最悪の条件を背負わされて、この世に生れてきました。そこで生活に矛盾があるのです。矛盾があるということに気がついて、安息に入るということを発見できるかどうかです。

 神は人間に矛盾を与えて、喜んでいるはずがありません。神は人間の霊を、ねたむほどに愛しているのです。ねたむほどに愛している霊魂を、なぜこんなに苦しめるのでしょうか。それは、苦しむことがなければ、安息の秘密をかぎつけることができないからです。

 苦しむことによって、安息が分かるのです。自分が生きようと思うからいけないのです。自分が生きようと思わずに、一切を神に任せるのです。これが自分が本当に生きることができる秘密です。

 この単純なことに気がついたら、卒業するのです。これをしないで、自分が生きようとする。これが、今までの記憶になって、残っているのです。

 今日まで生きてきたその記憶とは何か。肉の記憶ばかりです。肉体的に現象世界に生きていた。その記憶がびっしりつまっているのです。

 霊に生かされるべき人間の魂が、肉の記憶ばかりを背負っている。霊の記憶は一つもないのです。霊に従って一杯の水を感謝して飲んだ記憶がないのです。人に悪口を言われて、感謝した記憶がありません。肉の記憶ばかりです。魂は不平不満の記憶ばかりを持っている。不平不満をいっぱいもって死んでいくのです。そうすると、現世に生きていた記憶が、全部魂の重荷になってのしかかってくるのです。

 魂は何を持って死んだかと言いますと、現世の記憶だけをもって死んだのです。黄泉へ行って糧があるかといいますと、現世の肉の記憶で生きていたというのが糧です。こればかりを食らうことになるのです。過去ばかりを食らっているのです。

 黄泉に行っても、まだ現世にいると思っている。三島由紀夫は、まだ原稿を書いていると思っているのです。現世の業をまだ持っているのです。記憶が全部業になるのです。

 肉の生活をしていたものは、肉の記憶が全部業になる。それが魂を押さえつけたままの状態で、この世を去ることになるのです。これが地獄です。神の国のことを少しも知らないのです。

 黄泉にいる間はまだ原稿を書いていられますが、地球が消えた後にくる新天新地では、死と黄泉がことごとく死人を出して、すべての人を火の池に投げ込むのです。
 そ
れから、七転ばっとうの苦しみが始まるのです。神の国の経験が全然ないものが、神の国へ放り込まれる。それが地獄になるのです。新天新地が肉の人間にとって、底知れぬ恐ろしい地獄になるのです。安息している神に感謝できた人は、神の国に行けるのです。

 バイオリン弾きの一家に対して、神はくり返し現世に生きていてはいけないと言っているのです。私たちもこの世に住んではいけないのです。神の国に入るべきなのです。変貌山のあり方が、私たちの毎日の生活のあり方にならなければならない。

 そうすると、霊の記憶が積み重なっていくのです。水を飲んだら霊だった。食事をしたら霊だった。誰かと物を言ったら霊だった。霊の記憶が積み重なっていくのです。そうすると死んでからが全然違うのです。

 生きているうちに神の国に入りますと、毎日の生活が霊の生活になります。そうすると、いつ現世を去ってもいいという事が分かるのです。今ここで、とこしえの命に生きていれば、今現世を去ってもいいのです。山上の垂訓を行うのは、あたりまえです。そうすると、必ず天国に入れるのです。

 まず霊で生きるという記憶を、頭に中につくるのです。肉の記憶だけではだめです。

 神が人間を罪の下に売った。これが愛です。すばらしい愛です。罪の下に売らなければ、目が覚めないからです。罪の下に売られて始めて、間違ってるいることに気がつくのです。そこで古里へ帰ろうという気持ちがおきるのです。そのことを知らせるために、色々な矛盾が与えられているのです。それに気がついて、変貌山の生活をしたらいいのです。地獄ははつきりあります。明々白々にあります。肉の生活をしていた人は、その記憶がそのまま魂を嫌う原因になるのです。新天新地へ行ったらどうなるのか。あらん限りの裁きが続くのです。

 皆様が霊を渡すと、現世でアウシュヴィッツを実行した事になるのです。大人が霊を渡すと、皆様の生活がベビーになるのです。一切文句を言わないのです。これがイエスが生きていた状態です。イエスが天に生きていたのは、この状態をさしているのです。

 大人が霊を渡すのです。肉体的なべピーは、善も恵も分かりません。これでは意味がない。善悪利害が分かっている者が霊を渡すと、すばらしいベビーになるのです。

 これが本当の霊魂の記憶です。この世を去った時に、神に対して大きな土産になるのです。この記憶ができるまでは、現世を去ってはなりません。神の羊に対して重荷を負っているという記憶がはっきりするまでは、死んではならないのです。

 異邦人の分際で、イスラエルに警告したら望外の喜びです。神に勲章をもらえることになるでしょう。それくらいに大きなことをしているからです。


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