13肉の思い(死)を世界中に広めたのはユダヤ人

私たちが住んでいる世界は、驚くべきものです。最近、遺伝子のことがしきりに言われています。ところが、遺伝子の正体が分からないのです。働きだけは分かるのです。同様に、生理機能の働きは分かりますが、その実体が分からないのです。遺伝子の働き、生理機能の働きを、人間の側から解明しようとしています。これがユダヤ主義です。神の側から、宇宙的な見地から解明しなければならないのに、人間の側から解明しようとしている。これがユダヤ主義の悪です。私たちはユダヤ主義の悪を、徹底的に知らなければいけないのです。

創世記の二章に、命の木の実という言葉がありますが、これが神の遺伝子です。これは、目未だ見ず、耳未だ聞かず、人の心に未だ思い浮かびもしなかったことなのです。

人間は目に見える物質的現象があると思っています。これが肉の思いです。人間は肉の思いから縁を切ることができません。なぜできないのかと言いますと、歴史の実体を理解していないからです。

人間が見ている物質的現象世界は、実存していません。その証拠に、聖書は次のように述べています。
 「神がこう仰せになる。
   終わりの時には、
   わたしの霊をすべての人に注ごう。
   そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、
   若者たちは幻を見、
   老人たちは夢を見るであろう」(使徒行伝217)。

イエスの十字架によって、本質的に森羅万象はすべて消えてしまった。だから、自分はいないし、生きていることもない。これが実感できなかったらいけないのです。

老人たちは夢を見るとありますが、英訳では夢を夢見るという意味です。こういう心境で生きていますと、今の生活、仕事が何とも言えない楽しいものになるのです。

会社へ出勤することが嬉しいし、仕事をすることが何とも言えない楽しいことになるのです。電車に乗ることが嬉しい、車を運転することが嬉しいのです。何をしても楽しくて、嬉しいのです。この世にいることが、こんなに嬉しくて楽しいことかが、つくづく分かります。

現象が実体であると考えることが肉の思いです。この思いがあるので人間は死んで

しまうのです。

肉の思いを世界に広めたのは、ユダヤ人です。悪魔は肉の思い(原罪)を発明した。それを全世界に述べ伝えたのはユダヤ人です。

原罪の製造元は悪魔です。それを全世界に広めて、六十四億の人間を肉の思いで金縛りにしたのはユダヤ人です。だから、どうしてもユダヤ人を覆さなければいけないのです。

肉の思いというのは、全くの嘘です。御子イエスの本体は神の言(ことば)であって、「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」(ヨハネによる福音書13)と書いているのです。

パウロは次のように述べています。

「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。万物は、天にあるもの地にあるもの、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている」(コロサイ人への手紙l・1517)。

イエスが十字架につけられたので、万物はすべて否定された。だから、肉の思いは全く嘘になるのです。若者たちは幻を見る、老人たちは夢を夢見る。この心境にならなかったらだめです。

自分が生きていると思うことじたいが、全く肉の思いです。現象世界があることが、幻です。あるのは、現象世界でもないし、自分でもない。肉の思いでもない。これが分からない人間は、全部死んでいるのです。

ユダヤ人が肉の思いを世界中にばらまいたのですが、異邦人は肉の思いを全然知らないのです。旧約から新約への変遷を見ていきますと、皆ユダヤ人の仕業であることが分かるのです。

旧約時代の異邦人の考え方と、今の異邦人の考えとは違います。秦の始皇帝が持っていた思いは、今の人間の思いとは違います。動物の親方という考えでした。今の人間の肉の思いは、福音を知っていながら、信じていないのです。秦の始皇帝の時代の人々は、福音とは全然関係がないのです。旧約時代の異邦人の考えと、現在の異邦人の考えとは、次元が違うのです。

旧約聖書は異邦人を全然相手にしていません。新約聖書でさえも、イエスが十字架にかかって聖霊が降臨するまでは、異邦人を全く相手にしていないのです。イエスは、イスラエルの迷える羊のためにやってきたので、異邦人に教える必要はないと言っています。

イエスが十字架にかかるまでの異邦人には、肉の思いが全然なかったのです。何があったのかと言いますと、動物の思いがあっただけです。原罪はなかったのです。神は動物を問題にしていません。死のうと生きようと、勝手にしなさいという扱いだったのです。

肉の思いとはっきり言えるのは、キリスト紀元になってから後の事です。肉の思いの販売元はユダヤ人、製造したのは悪魔です。

イエス・キリストが十字架にかかるまでは、ユダヤ人以外に罪人と言える人は一人もいなかったのです。罪人が発生したのは、イエスが復活して、天へ行ってから後のことなのです。第三天が成立すると同時に、罪人が世界中に広がったのです。第三天が成立すると同時に、全世界の人間が罪人になった。これは神の御霊による聖書神学です。キリスト教の神学ではありません。

第三天とは何か。これは非常に難しいことですが、簡単に言うと次のようになります。常識によって見ている物質的現象世界が第一の天です。理論物理学、天文学で見ている極微、極大の世界が第二の天です。第三の天は、イエス・キリストの復活によって、古い物質的現象世界が完全に否定されて、全く新しい世界になっている。

これを証明したのがイエスの復活体です。締め切った部屋に自由に出入りし、食べ物を必要としない、永遠に朽ちない完全無欠のボディを持って現れたのがイエスの復活体でした。これは地球が永遠に朽ちない地球に変化していることを示しているのです。これが新天新地です。パウロはダマスコ途上でこれを見せられて、仰天したのです。

ヨハネは新天新地について次のように述べています。「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえ、神のもとを出て、天から下がってくるのを見た。また御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』。

わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。都は、日や月がそれを照らす必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊の命の書に名をしるされている者だけである。

御使いはまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。のろわるべきものは、もはや何一つない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照らし、そして、彼らは世々限りなく支配する」(ヨハネの黙示録21・l〜42215)。

イエス・キリストの復活によって、完全無欠の地球、永遠の地球ができた。しかし現在もまだ、古い地球が延長されている。それはイスラエルがイエス・キリストの十字架、復活の事実を受け入れないためです。やがて、この事実が明らかにされる時がくるでしよう。

パウロは次のように述べています。

「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」(使徒行伝173031)。

イエス・キリストが復活した。これは死を破った事で、これが新しい命、新しい地球ができたことの確証です。これをすべての人が受け入れることを、神が命令しているのです。これは理解できるとかできないという問題ではなくて、絶対者の命令だから、受け入れるしかないのです。

ノアの洪水以前に原罪はありましたが、ノアの洪水以後は原罪がなくなって、動物だけがいたのです。ただノアが神の祝福を与えられたことによって、ユダヤ人のみが人間並みに扱われたのです。人間並みに扱われたということは、罪人として扱われたということになるです。

アブラハムは信仰によって罪人ではなくなった。アブラムでなくなったのです。神がアブラムに約束を与えた時には、原罪の人であった。神の前にひれ伏した事によって、アブラムがアブラハムになったのです。その時、罪人であるアブラムがきえて、アブラハムになったのです。

罪人は獣より少しましな存在です。洪水の時に、人間は獣になった。神は人を造ったのを悔いて、心を痛めた(創世記66)と、はつきり言っている。人間が造ったことを後悔した結果、大雨が降り、大洪水が発生したのです。そして、造った人間を全部消してしまった。従って、原罪人間はいなくなったのです。神が滅ぼしたので、人間は存在していない。神の処置は絶対です。ただノアの家族だけが、かろうじて残ったのです。

かつて、肉の思いはユダヤ人だけが持っていたのです。第三の天ができた後に、ユダヤ人がシャッタアウトされた。ユダヤ人が獣扱いされたために、異邦人全体が罪人になった。これが新約時代の状態です。

旧約時代にギリシャ文明がありましたが、これは異邦人ばかりで造ったとは言えません。異邦人の中にユダヤ人が混ざっていて、そのユダヤ人たちの影響が当然働いていたでしょう。ですから、ギリシャ・ローマ文明は、全く動物文明とは言えないのです。

かつてユダヤ民族は十二部族ありましたが、今から二千七百年程前に、メディアペ

ルシアに滅ぼされて、十部族が世界に離散しました。それがどこへ行ったか分かりま

せんが、当然ギリシャ・ローマにも流れていったでしょう。

旧約時代の中国やインドの文明にも、全く動物文明と言えなくない面がありますが、そこにもユダヤ人の影響があったでしょう。ここにカインの末裔の問題があります。

カインがエデンから追放されて、カインの末蘭がふえて、中国やインド、その世界各地に流れていった。その人々が文明を造っていったと考えられるのです。

とにかく世界歴史というものは、人間が考えるものと、神の側から見るものとでは、全然違います。これを理解しないと、第三天が分からないのです。

歴史の流れは、人間が考えるものとは全然違います。人間から見た考えは、どんなものでも皆間違っています。全部間違っていると言わなければならないのです。

現象世界は幻です。幻を見ることができるかできないか。神の側に立てるかどうかだけです。神の側に立つことができない人は、幻を見ることができないので、救われないのです。

アブラハムの息子のイシマエルは獣です。アラブ人は獣ではありませんが、約束の民でもありません。イシマエルはアブラハムの家から絶縁されて、外へ追い出されたので、アブラハムの家族ではないのです。イシマエルとハガルは新しい民族の頭であって、アブラハムの息子ではありますが、ユダヤ人ではないのです。

ユダヤ人というのはアブラハムの正当な子孫として、神が認めたものだけです。ア

ラブの人は、神の約束に正当につながっている民ではない。そのことをマホメットは知っていたので、約束の民に仕えようとはしなかったのです。ユダヤ人とけんかをしてはいけない。親戚づきあいをせよと言いました。キリスト教とユダヤ教徒ともけんかをしてはいけない。その他の人間にイスラム教を布教せよと言っています。これがマホメットの伝道方針でした。

イスラムの神、アラーアクバルは語源から言えばエホバと同じですが、彼らは現世の生活だけを説いているのです。日本の八百万の神と同じことです。霊魂に対しては一切責任を持ちません。

アラーとエホバは同じだとイスラムの人は言いますが、内容が違います。約束がないものを、どうしてエホバと言えるのでしょうか。エホバというのは約束の民の神であって、約束の本源が父なる神エホバですが、アラーはそうではないのです。同じ名前を用いているだけなのです。

世界に本当にキリスト紀元が始まったと言えるのは、日本で聖書をまともに勉強しはじめた時です。日本で神の御霊がまともに働き始めた時からだと言えるかもしれないのです。聖書をまともに勉強することを禁じられている国がある間は、まだキリスト紀元が現われていないのです。

聖書を解禁したのは、文明国では日本が最後の国かもしれません。キリスト紀元の幕を上げたのは、日本かもしれないのです。

キリスト紀元が全世界に通用するのは、すべての国で聖書が解禁されてからです。聖書を勉強してはならないということが、法律的に、政治的に有効である国が一つでもあったら、キリスト紀元は成立しないのです。日本がキリスト教を解禁した時に、全世界にキリスト紀元が実現した。その意味で、日本の責任は重大です。一番最後に聖書に接した国に、第三天が一番先に開かれたのです。

私たち日本人は、神の側から、全世界に断言しなければならない責任があるのです。

未だかつて、生ける神の側から、第三天の主イエス・キリストにかわって発言をした人は、世界に一人もいません。パウロはもちろん第三天のキリストのことを言っていますが、その時はまだ全世界にキリスト紀元はきていません。本当に、第三天はこうだという言い方を、パウロはしていません。言ってはいますけど、開かれていない面があったのです。私たちには、第三天が実感を持って開かれているのです。

若者は幻を見る。老人は夢を見る。皆様が神に適う者になろうとすれば、まず幻を見ることです。

闇が淵のおもてにあった。淵とは何か。聖書はこれについて次のように述べています。

「ある金持ちがいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持ちの前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。

この貧乏人がついに死に、御使いたちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持ちも死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。そこで声を上げて言った、『父、アブラハムよわたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。

ァプラハムが言った。『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えてくることもできない』。

そこで金持ちが言った。『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。

ァプラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。金持ちが言った。『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。アブラハムは言った。『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」(ルカによる福音書161931)。

淵というのは現象という意味と、越えることができないという意味があるのです。闇(悪魔)が淵のおもてに座った時に、淵の位置が定着した。闇が淵のおもてに座るまでは、淵は淵でなかったのです。淵はありましたが、淵としての位置をもっていなかったのです。

闇が淵のおもてに座ったとたんに、淵が闇に同化した。その時初めて、淵の存在が神の前に宇宙的なものになったのです。

淵というのは大いなるわだであって、神から出ていった(離れた)魂と、神との間には、淵があるのです。淵が頑張っているから、どうしても越えられないのです。今皆様の肉の思いが、淵になっているのです。預言者が手引きしなかったら、絶対に超えることはできません。預言者の手引きは、御霊の手引きです。

皆様は言葉の値打ちを知らないから、命の遺伝子が成立していないのです。言葉の値打ちを知ると、初めて自分の中に、限りなき命の遺伝子が発生するのです。もっともっと素直になるのです。そうすれば命の遺伝子が分かるでしょう。条件は素直になるだけです。

般若ハラミタというのは、淵をのりこえて、向こう岸へ行くことです。ところが、淵をのり越えて向こう岸へ行っても、そこに涅槃はあるけれども救いはないのです。日本人はそれを何となく知っていますので、五蘊皆空、色即是空と言われても、なかなか実行する気持ちにならないのです。

イエスは伝道の第一声で、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコによる福音書115)と言っています。淵を越えて向こう岸へ行っても、それは悔い改めです。そして、神の言葉を受けとめると、神の言葉によって、新に生れることができるのです。

淵が越えられない悔い改めは、本当の悔い改めではない。悔い改めたら福音を信じられるのです。悔い改めてそれで終わりとは違います。

福音を信ぜよという日本語訳は正確ではありません。福音において信じるという言い方が正しいのです。福音において物を考えなさいと言っているのです。福音において世界観を持つのです。そうすると第三天はすぐに分かるのです。

キリストが復活して、この地球はどうなっているのか。エルサレムの神殿の幕が裂けた時、地球はどうなったのか。エルサレムに地震が起きて、墓の中から建った多くの死人は、どこへ行ったのか。この時のエルサレムのでき事が、地球全体に対して何を意味するのか。

ナザレのイエスの息がたえた時に、大地震が起きて、墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。エルサレムの神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。神殿の幕が裂けたことが、世界的にどのようなことが起きたかです(マルコによる福音書1538、マタイによる福音書275153)。

エルサレムは、「私がこの土地を選んで、私の住み処にした」と神が言っている場所です。これらの記事を注意深く読んでいくと、現象世界が消え去って、第三天が実現していることが分かるのです。

ルネッサンス以降の近代文明は、神の側から見ると、キリスト紀元の実体になっているのです。1600年頃までは、世界の人口は2億数千万人でした。産業革命以降に、人口が加速度的にふえはじめた。文芸復興、産業革命によって、人口が加速的にふえた時から、ユダヤ主義が世界に広がりはじめたのです。ユダヤ教の宗教観念が、文明という形で世界に広がったのです。現代文明は宗教です。科学も、医学も、哲学も経済も、皆、ユダヤ教の焼き直しです。

大いなる淵を越えなければいけない。大いなる淵を越えている人間は、命、死の内容をはっきり説明できるのです。

神殿の幕が裂けたということは、物質がすべて消えてしまったことを意味しているのです。すべてのものは神の言(ことば)によってできている。神の言であるイエスが十字架につけられたことによって、物質がすべて消えてしまったのです。肉の思いを持っている人間は、自分が肉体的に生きていると思っています。その思いによって、物質が存在しているように見えるのです。

汝の信仰のようになるとイエスは言っています。人間はないものをあると思っているのです。闇が淵のおもてに座り込んだことによって、闇が淵になってしまった。人間の肉の思いがそのまま淵になっているのです。その淵が真っ暗になっているのです。

闇と淵が一つになっている。だからいくら悟ってもだめです。淵の状態で悟っている

からです。

闇とは一体どういうことなのか。かつて三島由紀夫が割腹自殺しました。その時の状態を考えてみるといいです。霊媒が彼の霊を呼び出して聞いた所、首が痛いと言っているのです。今何をしているのかと聞くと、原稿を書いているというのです。どんな内容の原稿を書いているのかというと、全然答えなかったのです。死んでしまうと思考が停止してしまうからです。

かつて京都大学で、霊媒の研究をしている人がいました。ある助教授が、朝、バスに乗って出勤をしている時に、市電と正面衝突したのです。そのために、助教授が即死してしまった。早速その助教授の霊を呼び出して何をしているかと聞いた所、「僕はバスに乗っているよ」と答えた。それ以外のことは何も答えなかったのです。

死ぬとはどういうことか。現世に今いる人間は生きているつもりです。ところが、バスに乗っていて、飛行機に乗っていて事故で即死したとします。そうするとどうなるのか。死んでいないのです。まだバスに乗っていると思っているのです。飛行機に乗っていると思っているのです。現世を去る瞬間の事を、覚えているのです。

現世の人間は、肉の思いで生きています。肉の思いで生きているのは、生きているのではない。死んでいるのです。肉の思いは死であるとあります(ローマ人の手紙86)。霊魂的に言えば死んでいるのです。人間が肉の思いを持っている間は、いつ現世から去らなければならないか分からないのです。

聖書は、鼻の穴から息を出し入れしている人間を、信じるなと書いています。だから鼻の穴から息を出し入れしている人間でないものにならなければいけない。そうしなければ預言者になることはできないのです。そうでないと神は相手にしないのです。

肉体がある。現象があると思っている人は、肉の思いで生きているのであって、死んでいるのです。今息が切れても、それが分からない。死後の世界と、今生きている世界とは、同じです。同じレベルです。死んだことが本人に分からない。これが恐いのです。

死んだことがはっきり分かる人は、生きているのです。肉の思いで生きている人は、神から見て、既に死んでいるから、生きていても死んでいても同じことなのです。

ただ現世にいる状態と、死んだ後の状態と全然違うことが一つあります。現世に生きている人には、直感、推理、判断、記憶という四つの生き物が、猛烈に働いているのです(ヨハネの黙示録46〜川)。四つの生き物が、昼も夜も、二十四時間中猛烈に働いているので、直感、感受、推理、判断、記憶ができるのです。人間の思考作業は、御座(父なる神)の回りを、飛び回っている四つの生き物によってなされている。人間の力によっているのではないのです。

ところが、息が切れたとたんに、四つの生き物が去ってしまう。その瞬間に思考活動は停止する。ただ、死ぬ時の感覚のみは残りますが、精神活動はゼロになるのです。

宗教観念で何を信じてもだめです。死んでから天国へ行くと信じてもだめです。四つの生き物が働いているから、信じられるのです。四つの生き物がいなければ、信じることさえできないのです。

宗教は生きている間にお金を取りまくって、無明の人間をおだてあげるのです。見殺しにして地獄へ放りこむのです。宗教の仏さんは、人間と一緒に死んでくれません。

キリスト教の神様は、人間と一緒に死んでくれないのです。死んだら神も仏もないの

です。

一番恐いのは、死ぬことが自覚できないことです。死んだらどうなるか分からないのです。現世を去って眠っているのです。生きている間に死んでいたからです。

黙示録に次のように書いています。

「また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これは、いのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉も火の他に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた」(ヨハネの黙示録201115)。

命の書とは聖書そのものです。命の書に名がしるされるとは、聖書の言葉がその人にしるされることです。聖書の言葉の中の一句、一節が、命になるのです。そうすると、その人の名前が聖書にしるされることになるのです。

闇が淵のおもてに座り込んだ時に、闇が淵になった。そのように、皆様の命が聖書に座りこんだらいいのです。そうすると、聖書が皆様の命になるのです。命の書に名がしるされている人だけが、救われるのです。

命の書に名がしるされているとはどういうことか。人間の心理機能は自分で造り出せるものではありません。脳に言語野というものがありますが、その元になるものがあるはずです。猿にもそれに近いものがありますが、人間の場合は理性が中心になっています。言語野が理性的な働きをするのです。

その場合、理性の基礎が肉であるか霊であるかによって、言語野の働きの次元が違ってくるのです。ハートが肉の思いか霊の思いかによって、言語野の働きの次元が違ってくるのです。肉の思いか、霊の思いかが重要です。肉の思いは肉の遺伝子が心理構造の基礎になっています。霊の思いを持つ人は、霊の遺伝子が基礎になっているのです。

この世に生れてからの後天的な意識による人間は、例外なくすべて肉の思いばかりです。親から譲り受けたものは、肉の遺伝子です。この世における親を親だと思い込んでいる人は、絶対に救われません。遺伝子がそのように決定しているからです。親から受けた遺伝子は、人間としての遺伝子しか受けていないのです。

そこで、水と霊によって新しく生まれると、神の遺伝子を受けることになるのです。これが、永遠の生命である最も重要な御霊を受けることになるのです。神の御霊とは何かというと、大自然に遍満するするエネルギーです。これが文字として現われたのが聖書です。聖書の言葉が命として自己存在と一つになることを御霊を受けると言います。

聖書は神の言葉です。言葉と命の関係について、ヨハネは次のように述べています。

「はじめに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」(ヨハネによる福音書114)。

言に命があった。言の命とは永遠の命のシード(精子)です。これによって新しく生内村鑑三氏は洗礼は受けても受けなくてもいいと言っています。彼は限りなき命を持っていなかったのです。だから、水からと霊からと生れることを、はっきり説いていな、いのです。神の言を命として受けとめることができなかった。従って、内村氏の中で神の言が命になっていなかった。彼は命の書にしるされていないことになるのです。

ヨハネは、神の言に命がある、その命は人の光であると言っています。光とは知恵の源泉という意味です。ザ・リビング(人が生かされている実体)が、そのまま神からの光になるのです。ザ・リビングの内容と、聖書の言が、きちつと一致するのです。

これがはっきり分かったことが、命の書に名がしるされたことになるのです。これが、ザ・シール・オブ・ザ・リビング(the seal of the living)です。生ける神のしるしです。生ける神のしるしを、絶対に持たなければならない。これがないと、イスラエル十四万四千に印することができないのです。イエス・キリストの代弁をしたらいいのです。第三天にいます主イエス・キリストの言葉の代弁をしたらいいのです。これが命のことばですから。

人間にとって一番怖いことは、いつ死ぬか分からないし、死んでいくことが自覚できないことです。死んだ後にどうなるか分からない。この三つが分からないことが、一番不気味です。これが分かった人は、命におり、死なない人になるのです。三島由紀夫と川端康成は、今黄泉にいます。黄泉には時間がありませんので、千年間はすぐに経過します。来るべき千年王国が終わった時に、海と死と黄泉が死人を出す時がきます。

死と黄泉から出された人は、火の他に放りこまれて、消えない火で永遠に焼かれるのです。その時、死者は憤然とするでしょう。これが甦りです。その人の記憶が、全部目を覚まします。それから永遠の苦しみが始まるのです。

肉の思いで生きていたことが、どれほどばかなことだったかが、分かるのです。しまったしまったという悔恨の念が、永遠にその人を苦しめるのです。良い事を行った人はよい恵みを受けるために甦り、悪しき事を行った人は、悪しき報いを受けるために甦るのです。聖書の言葉の重みが、初めて分かるのです。

その時、新しき天と新しき地ができるのです。今の天地は仮の姿、譬です。これが過ぎ去って、本当の天と地が現われるのです。

神の言が命です。人間が生きているのは、命ではありません。生命現象と命とは違います。本命は本質を意味するのです。今の人間は本質に生きていない。仮の心で仮の命を生きている。本質の命、本当の命を見つけて、本当に生きなければいけないのです。


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送