15女性の性器

生きている状態が、そのままイエス・キリストの復活の状態になってしまわなければいけないのです。我にとって生きるはキリストとパウロは言っていますが、ここまでいかなければ、信仰とは言えないのです。

信仰は気持ちの持ち方だけです。気持ちを切り替えると、全然違った世界が、見えてくるのです。

聖書の勉強は、キリスト教の勉強ではありません。自分が消えてしまう勉強です。自分が消えてしまうことなのです。

自分の気持ちを持っていてはだめです。固有名詞を自分だと思っていてはだめです。固有名詞の自分が消えてしまわなければだめです。固有名詞の自分がある間は、宗教観念はなくなりません。自分の底が抜けてしまわなければいけないのです。

人間の思いが底なき穴です(ヨハネの黙示録203)。固有名詞の人間の思いが、底抜けです。自分の思いが底抜けであることが分かると、足場がないことが分かるのです。自分を持っているから分からないのです。なぜ足場がないかと言いますと、自分がないのに、自分があると思っているからです。これを底なき穴と言うのです。立つ瀬がない。足場がないのです。神はイエスを捨てた。どうして捨てたか言いますと、肉体的に生きているイエスがあってはならないからです。イエスほどの人でも、肉体的に生きている自分がいると思うことが、底なき穴だからです。

イエスは、自分で神を信じていると思っていた。私は父の内にあると思っていたのです。イエスがそう思っているだけではだめです。神の信仰とは違うからです。

我父にあると、肉体を持っているイエスが思っていました。神はイエスが分かっていました。神から見ると、イエスが純真な気持ちで、我父にありと思っていることが分かるのです。しかし本当のことは、神以外にはわからないのです。神だけは分かるのです。

肉体を持っているイエスが、我ありと言っている。肉体を持っている我々が、そのイエスを信じている。これではいけないのです。そこでイエスを捨てたのです。イエスは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだのです(マタイによる福音書2746)。

イエスに誤りはないけれど、肉体があることを信じていた。これがいけないのです。肉体を持っている人間は、底抜けの人間です。初めから底が抜けているから、どんどん下へ落ちていく。その下には、火の池があるのです。底抜けの下には、火の池があるに決まっているのです。イエスは肉にて殺されて、霊にて人屋に送られた。人屋は地獄です。肉体を持っているものは、神に捨てられるのです。イエスでさえも捨てられたのですから、神に捨てられることを嫌がってはいけないのです。人間は何とかして神に救われたいと思っている。これがいけないのです。自分を捨てなかったらいけないのです。自分を捨てるとは、自分の気持ち、自分の考え、自分の意見をすてるのです。

毎日、自分を捨てるのです。仕事をしている時でも、料理を作っている時でも、掃除をしている時でも、自分を捨てていなければいけない。セックスの時でも、自分が消えていなければいけないのです。

エデンの園の中央に、二本の木がはえていました。云は霊(命)の木、もう云は肉(善悪を知る)の木です。霊の木が分かると、肉の木は消えてしまいますし、肉の木が分かると、霊の木が消えてしまうのです。

どうして霊(命)が分からないかというと、固有名詞の自分がいる、肉体的に生きているのが自分だと思っているからです。肉体的に生きているのが自分だと思っているからです。肉(死)の自分ばかりをつかまえている。善悪を知る木の実ばかりを食べているのです。

特に、異性の性器に接する場合は、善悪を知る木の実ばかりを食べている。だからだめです。性器が霊に見えなかったらだめです。性器を肉だと思っている間は、肉を信じているのです。肉に触っていることになる。皆罪を犯しているのです。

性器の見方が急所です。アダムとエバが罪を犯したとき、まっ先にしたことが、お互いの性器を隠したことです。性器を隠している人は、神から身を隠しているのです。きたないものだと思っているからです。そういう人は、必ず地獄へ行かなければならないのですり

イエスは、「わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ。神に捨てられたからです。イエスが肉体を持っていることを、神は気にいらなかったからです。

肉体的にこの世に生れてきたことが、業です。カルマです。カルマという業がなくなってしまわなければ、復活の命は分かりません。肉体で生きていると思っている間は、復活の命を生活することができません。復活の命を、生活しなければいけないのです。

女性は男性に抱かれると喜びますが、これが肉の喜びだと思っている間はだめです。といって、霊だと思っていたらいいのかと言いますと、ただそれだけではいけないのです。魂の喜びだということが分からなければいけないのです。

人間が生きているのはどういうことか。食べておいしいと思うことが、そのまま霊魂に安らぎが与えられているのです。魂がいやされるのです。我はエホバにして汝をいやすものなりとあります。魚の味、果物の味は何か。肉の味、コーヒーの味、きのこの味は何か。これは皆エホバの味です。色、形、味、香りはすべて、神の御名です。おいしいと喜んでいるのは、魂です。ところが肉が喜んでいると思っている。これが間違っているのです。

田舎の年配の人は、性器が汚いものだと思っている。なぜそう思っているかというと、性の喜びの他に、喜びがないのです。都会の人は、映画を見るとか、遊園地に行く、ゲームをする、デパートへ行くとか、色々娯楽がありますので、性のことばかりを考えなくてもいいのです。田舎にはそういうものがありませんから、性中心の生活になりやすいのです。だから性に関する関心が非常に強いのです。最高の喜びになっているのです。

最近の、テレビ、雑誌の性に対する刺激が強いもの、神の処置と言えなくもないのです。神がそういうことを許しているからです。それを通して、悪いものはますます

悪くなり、良いものはますます良くなる。清いものはますます清くなり、汚いものはどんどん汚くなるのです。神が露骨に見せている。こういう神の処置を悟らなければいけないのです。

今まで生きてきたことと、全然違った、本当の霊魂の生活ができなければいけない。生きている間に、新たに生れて、神の国に入ってしまわなければいけないのです。今まで生きてきたことと全然違った、本当のあり方が悟られると、初めて、イエスの復活が分かってくるのです。生きている間に、それをつかまえることができなかった者は、永久に救われません。イエスは新しく生れて、神の国に入れと言っていますが、これを実行していない者はだめです。

とにかく、今までの自分の気持ちを持っていたらだめです。自分の気持ちで、いくら聖書を勉強してもだめです。聖書の言葉が、命にならないのです。

今まで考えていた自分ではない別の命、上からの命、第三の天の命が見えてこなければいけない。そのためには、どんな理屈も、どんな自分の気持ちも、全部捨てなければいけないのです。

今まで皆様は、善悪を知る木の実ばかりを食べていた。これが肉の国です。肉の気持ちで見れば、善悪を知るに決まっています。性器が汚く見えるのも、善悪利害を考ぇているからです。ところが、霊の方を見ると、善悪側溝は消えてしまうのです。性器も顔も、同じに見えてくるのです。そうでなければ携拳されないのです。

男性は女性の性器が好きです。たまらなく好きです。死ぬほど好きです。なぜそんなに好きなのか。実は女性の性器が男性のハートだからです。これは創世記の二章を詳しく読むと分かるのです。男性のハートが、女性の性器になっている。だからそれに惹かれて、惹かれてしょうがないのです。無限に惹かれるのです。

今まで、女性の性器が男性のハートだと言った人はいないでしょう。性器の見方が変と、新しい命が見えてくるのです。性器を隠し所だと思っている間は、新しい命は絶対に見えません。

肉の性器を見ている間は、霊の性器は見えません。肉の性器だけを性器だと見ているのです。霊の性器が全然見えないのです。見てはならない方ばかりを見ているのです。神が見なさいといった霊の方を、全然見ていないのです。

命の木の実をどうしたら食べられるのか。命の木の実を食べにいこうとすると、自ら回る炎のつるぎが、猛スピードで回っていますから、それに切られてしまうのです。

肉の自分が切られてしまわなかったら、そこへ行けないのです。本当の性器を知りたいと思ったら、自分が死んでしまわなかったらいけないのです。

女性の性器は男性のハートだということが分かりますと、すべてのことがだいぶ変ってきます。金銭の問題でも、健康の問題でも、信仰の問題でも変ります。自分が自分ではなくなりますから、イエス・キリストに対する考えも、全く変ります。

新約聖書にありますが、マグダラのマリアが、イエスの足に油をぬって、髪の毛でその足をふいたのです。イエスはそれをだまって受け入れたのです。他の女性たちが焼きもちを焼いて、つぶやいたのを見て、この女の人とおまえたちと、どちらが真心があるかと聞いたのです。未だかつて、マグダラのマリアのことを、説明したキリスト今まで、女性の性器が男性のハートだと言った人はいないでしょう。性器の見方が変ると、新しい命が見えてくるのです。性器を隠し所だと思っている間は、新しい命は絶対に見えません。

肉の性器を見ている間は、霊の性器は見えません。肉の性器だけを性器だと見ているのです。霊の性器が全然見えないのです。見てはならない方ばかりを見ているのです。神が見なさいといった霊の方を、全然見ていないのです。

命の木の実をどうしたら食べられるのか。命の木の実を食べにいこうとすると、自ら回る炎のつるぎが、猛スピードで回っていますから、それに切られてしまうのです。

肉の自分が切られてしまわなかったら、そこへ行けないのです。本当の性器を知りたいと思ったら、自分が死んでしまわなかったらいけないのです。

女性の性器は男性のハートだということが分かりますと、すべてのことがだいぶ変ってきます。金銭の問題でも、健康の問題でも、信仰の問題でも変ります。自分が自分ではなくなりますから、イエス・キリストに対する考えも、全く変ります。

新約聖書にありますが、マグダラのマリアが、イエスの足に油をぬって、髪の毛でその足をふいたのです。イエスはそれをだまって受け入れたのです。他の女性たちが焼きもちを焼いて、つぶやいたのを見て、この女の人とおまえたちと、どちらが真心があるかと聞いたのです。未だかつて、マグダラのマリアのことを、説明したキリスト教の牧師、神父さんがいないのです。分からないからです。

女性の性器を大きくすると、女性になる。女性は性器、性器は女性です。性器が汚れているなら、女性は皆汚れているのです。

ところが、神から見ると、女性は罪人ではないのです。創世記の第三章を詳しく見ると分かりますが、神から絶対に食べるなと言われた善悪の木の実を食べたが、女性に対しては、罪の宣告がなされていないのです。土に帰れと言われたのは男だけです。

女性は夫に従えと言われているのです。子供を生む時は苦しんで生むことになる。夫に従えと言われただけです。女性は地獄へ行くとは一言も書いていない。地獄へ行けといわれたのは、男だけです (創世記31619)。

地はあなたのためにのろわれる。これはものすごい言葉です。男のために、地球全体が呪われてしまった。この意味が分からないのです。

女性のハートは原罪をもっていません。それがそのまま性器になって現われているのです。性器のことが本当に分かると、原罪のない女性が見えてくる。男性はそれを慕うのです。原罪のないものを慕うのです。男性は自分が原罪を持っていますから、欲になってしまうのです。

女性は、自然の関係と、不自然の関係を直感的に知っているのです。女性の性器(おそそ)が、何となく霊だということを、知っているのです。男性はおそそを肉のように扱うので、しようがないと思ってついて行っているのです。男性が触りにくるのが、不自然の関係だということが、分かるのです。

女性は本当のことを求めている。本当のこととは何かと言いますと。永遠の愛です。永遠の愛とは、肉ではないおそそです。それを女性は知っていて、男性にも知ってほしいと思っているのです。

男性は永遠の愛を知らないから、目の前の欲ばかり知っているのです。愛は目の前のものではなくて、永遠のものです。男性の考えを切りかえないといけないが、これはなかなか大変なことです。

男はまず自分の考えを切り替えること、そして、他人の考えを切り替えてあげることが必要です。これをしないといけないのです。

男性が肉的に触りにくるので、おそそを汚いものと思うことになるのです。ところが、触られないと寂しいと思う。この考えは間違っているのです。女性は上等の気持ちでおそそを触ってほしいのです。霊なる愛を求めているのですが、霊なる愛が分かる男性がいないのです。

おそそは、本当は尊いものです。これは骨の骨であって、とこしえの命の入口なのです。おそそは本当は骨の骨です。これを肉の肉にしてしまうからいけないのです。

結婚をすると、男性も女性も、極端に悪くなります。これを元にすることができるに扱うので、しようがないと思ってついて行っているのです。男性が触りにくるのが、不自然の関係だということが、分かるのです。

女性は本当のことを求めている。本当のこととは何かと言いますと。永遠の愛です。永遠の愛とは、肉ではないおそそです。それを女性は知っていて、男性にも知ってほしいと思.っているのです。

男性は永遠の愛を知らないから、目の前の欲ばかり知っているのです。愛は目の前のものではなくて、永遠のものです。男性の考えを切りかえないといけないが、これはなかなか大変なことです。

男はまず自分の考えを切り替えること、そして、他人の考えを切り替えてあげることが必要です。これをしないといけないのです。

男性が肉的に触りにくるので、おそそを汚いものと思うことになるのです。ところが、触られないと寂しいと思う。この考えは間違っているのです。女性は上等の気持ちでおそそを触ってほしいのです。霊なる愛を求めているのですが、霊なる愛が分かる男性がいないのです。

おそそは、本当は尊いものです。これは骨の骨であって、とこしえの命の入口なのです。おそそは本当は骨の骨です。これを肉の肉にしてしまうからいけないのです。

結婚をすると、男性も女性も、極端に悪くなります。これを元にすることができる人が、本当の男性です。そのためには、まず女性が男性の胸の中に返ってしまわなければいけないのです。

女性は神に罪人として扱われてはいません。ただ夫に従えと言われているのです。神が禁断の実を食べるなと命令したのは、男性に対してです。だから、女性が禁断の実を食べても、原罪にならないのです。男性は食べてはいけないと言われているのに食べたのですから、原罪になっているのです。神は、初めから女性を刑罰する気持ちはないのです。

女性は何を求めているのか。女性が本当に求めているものは何か。白い馬に乗ってくる王子様を求めているのです。

女性はいくつになっても、すばらしい王子様が迎えにきてくれると思っています。これが女性の自然の用です。女性はそれを知っているのです。男性は、女性が求めているような上等の心理状態にならなければいけないのです。

おそそに対する気持ちが変ってしまうと、生きている気持ちが変ってしまいます。人に誤解されても、いやなことを言われても、憎まれても、それについての考えが変ってしまうのです。イエスが述べた山上の垂訓(マタイによる福音書五章〜七章)を、実行することができます。おそそに対する考えが変らなければ、山上の垂訓は絶対に実行できないのです。ぉそその実体が分かると、人間の肉がないことが分かるのです。肉がなければ、山上の垂訓が自由に行えるのです。この世に生きている自分がないからです。

肉体的に生きているという事実はありません。人間の肉体はないのです。神の言葉の働きがあるだけです。おそそは、神の言葉の働きが、最もはっきり現われているのです。ペテロが次のように述べています。

「あなたがたが新に生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである」(ペテロの第一の手紙123)。

朽ちない種は、聖書の言葉です。これが霊の種です。霊の精子です。霊の精子を人間のハートに受けるのです。

人間のハートは、神の精子を受けとる性器になっているのです。人間の霊魂のハートは、女性の性器と同じものです。人間が生きていることが、ハートのリビングになっている。人間のリビングとハートは同じものです。ハートがそのままリビングになっていますし、リビングがハートになっているのです。

生きているという事実(リビング)を通して、神の種を受けとるのです。生きているという事実の中へ、神の言が入るのです。そうすると、懐妊する。そして新しい命が生れるのです。人間のリビングが、神の精子を受けとめる女性の性器になっている。人間の魂はおそそです。そこへ神の言葉が入って、実を結ぶのです。人間の魂の中へ神の言葉が入らなければ、実を結ばない。神がどれだけ言葉を用いても、どれだけ聖書が説かれても、聖書の言葉が人間の霊魂の中に入って命が生れなければ、新しく生れることはできないのです。

人間の魂は、神の言葉(神の種)を受けとめるための、おそそにならなければいけないのです。おそそが汚いと考えているようでは、その霊魂はいつまでも神の言葉を受けとれません。

人が生きていることが、霊魂です。そこへ神の言葉が宿る。そうすると、生きていることがかわってしまうのです。

聖書の言葉は教えではありません。神の種です。神の種が霊魂に入らなければいけないのです。

その前に、イエスが洗礼を受けて消えてしまったように、私たちも消えてしまわなければいけないのです。消えないままで、いくらイエスが主であると言ってもだめです。空念仏です。

今まで、この世に何十年間も生きてきたと思っている。その気持ちで、いくら聖書を学んでもだめです。今日、新しく生れたと考えるのです。昨日までのことを一切忘れるのです。今日生れたと考えて、遠慮なく新しい命として生きるのです。古い自分、古い人生、古い命のことを一切考えないのです。

神から見れば、すべての人間は皆イエスです。だから、イエスのように考えたらいいのです。ちょっと厚かましく見えても、そう考えたらいいのです。

おそそに対する考えが変ると、今までの夫婦の感覚が変ってしまうのです。愛だけでつながることが分かってきます。とこしえの愛でつながるのです。肉のおそそを頭においている間は、とこしえの愛は分かりません。

骨の骨になるか、肉の肉になるかは、おそその見方によって決まるのです。今までの記憶はあります。記憶を消し去ってしまうことはできません。記憶があっても、その記憶に頓着しないのです。

今までのおそそに対する記憶を信じると、又元に戻るから、それを信じないのです。今までの人間ではない、新しい人間になるのです。古い記憶はあってもかまいません。放っておけばいいのです。

聖書はいくら信じてもだめです。聖書は教えではありません。命です。命として受け取らなければいけないのです。教えとして受け取っていると、感心はするけれども、命にならないのです。

新しく生れるのです。新しく生れなければだめです。今からでも遅くない。七十才になろうが、八十才になろうが、新に生れたらいいのです。

女性は男性の胸の中に入ってしまわなければいけないのです。愛されていると思うことが、愛されていることです。男性の胸の外で生きていたらいけない。男性の胸に入ってしまわない女性は、必ず地獄へ行くのです。

自分がいくら分かったといってもだめです。自分は分からなくてもいい。変ったらいいのです。

今までの人間が救われるのではない。イエスでさえも神に捨てられたのです。神は私たちを捨てているのです。神が問題にしているのは、イエスだけです。私たちも、イエスだけを問題にしたらいいのです。

皆様のリビングがイエスです。リビングがあるだけであって、自分という人間がいるのではない。リビングは人間ではありません。生きている状態です。これが人の子です。イエスです。これだけを見ていけばいいのです。


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送