はじめに

ユダヤ民族は、良い意味でも、悪い意味でも、普通の民族からとびぬけています。すばらしい人もユダヤ人ですし、極端に悪いのもユダヤ人なのです。預言者、イエスという、すばらしすぎる程すばらしい人もいますが、世界全体を害毒で泥まみれにしてしまう言語道断な連中もユダヤ人なのです。神的な面と、悪魔的な面とが同居している民族ですが、うなじがこわいという点からだけ考えますと、悪い人は悪い人なりにこわい、良い人は良い人なりにうなじがこわいのです。

だからこそ、ユダヤ人によって四千年もの間、神の約束が保たれてきたという事実があるのです。ふにゃふにゃした民族なら、うなじがこわくない民族なら、とっくに神の約束は消えてしまっているのです。

未だに旧約聖書、新約聖書が世界の人類の指導原理になっているという事実は、うなじがこわい民族が約束を受け継いで、にぎりこんでいるからだと言えるのです。よい意味においても、悪い意味においても、神的な、また、悪魔的な民族なのです。普通の民族ではないのです。だから、日本人の常識ぐらいでは、ユダヤ人問題の神髄にはさわれないのです。入り口にはさわれても、神髄にはさわれないのです。

とにかく、ユダヤ人の根性がなおれば、人類全体の歴史の根底が変わってしまうのです。そこに、非常に大きい希望が持てるのです。ユダヤ人がこれ以上悪くなりますと、文明は完全に滅んでしまいます。いちかばちかのキャスティングボードをにぎっているのが、ユダヤ人というやっかいな民族なのです。うなじがこわいというのは、良い意味においても、悪い意味においても言えるのです。

人間の命はなぜあるかと言いますと、命の管理をするためにあるのです。人間の肉体は、物理的に言いますと、地球存在のあらゆる物質要素、例えば鉄、金、石、ダイヤモンド等、地球上に存在するあらゆる物質的要素が、含まれているのです。

これは、物理的にそう言えるだけではなくて、あらゆる植物的存在、動物的存在、虫類的存在、魚類的存在、あらゆる精神機能的な要素が、人間の精神機能の中に、全部含まれているのです。

例えば、人間の精神構造の中には、ミミズがいるのです。蟻のような要素もあります。ムカデもいます。サソリ、ヘビがいるのです。だから、焼き餅をやくのです。人をにくんだり、いやみを言ったり、蚊の要素とか、ゴキブリの要素等が、たくさんあります。嫁と姑のあらそいは、毒ヘビとサソリのけんかみたいなものです。

人間存在は奇妙なものです。あらゆる物理的要素、心理的要素が、人間に全部含まれているのです。これが、命の管理ということなのです。人間は、自分一人で生きていると思ったら大間違いです。自分一人ではありません。

人間は、万物の頂点にいるのです。つまり、万物と一つの状態で存在しているのです。人間があって、万物があるのではないのです。人間と万物は、ワンセットの状態で存在しています。ですから、命は自分のものだという妄念を、持ってはならないのです。

基本的人権という考えは、最も悪いのです。これは、人間は、人間独白で存在しているという感覚なのです。人間は、独自に存在しているのではないのです。万物と一緒に存在しているのです。そこで、人間自身が良くなるか悪くなるかで、世界全体、万物全体が良くなるか、悪くなるかの、非常に大きいポイントになってくるのです。

これは、今の学問では分かりません。今の学者が専門学を考えていることが、すでに学者ではない証拠なのです。文学博士も、医学博士も、工学博士も、全部博士というべきではないのです。

現代学は、ユダヤ人が造った学なのです。近代学が造られ、現代学的に進歩しているのですが、これによって世界全体の人間が、ユダヤ思想のために死んでしまっているのです。そこで、自殺する人が出るのです。現代人は、命を自分のものだと考えています。だから、死のうと生きようと自分の勝手だと思っています。その考えが、倣慢そのものです。命は、自分のものではありません。天のものです。命は自分のものという考えは、底知れぬ人間の愚かさです。これがユダヤ思想なのです。

ユダヤ人は、世界の政治、経済、学問をリードしている大民族であることは確かなのです。この中心民族が、身の程を知らぬ、大バカなことをしているのです。そのために、現代文明はくさっているのです。

命は自分のものではありません。天から貸し与えられているものです。貸し与えられている命を、自分のものと考えてしまうことになりますと、他人のものを貸してもらって、それを自分のものというように考えてしまうのですから、明らかに背任横領罪になるのです。

例えば会社の社長が、株主から預かったお金を、自分のお金だと思いこんで、勝手に自分の遊興費に使ったとすれば、はっきり背任罪です。今の人間は、全部こうしているのです。自分が生きていると思っているのは、天から貸してもらった命を、自分のものだと考えて、横領してしまっているのです。これは明らかに背任横領です。

天は、人間の霊魂を信じて、命を貸与しています。それを自分の命だと思いこんで、死のうと生きようと勝手だと考えています。生きる方はまだいいとして、自分が自分の命を絶ってもいいと考えるのです。京都の大本山南禅寺の管長がそう考えたのですから、全く困ったものなのです。これは明らかに背任横領です。自分が生きていると考える人は、そう考えただけで必ず地獄へ行きます。人間の命は、自分自身の命を管理すると同時に、万物の命を、万物に代わって管理しなければならない責任があるのです。ですから、自分が悟ろうと悟るまいと、五蘊皆空を信じようと信じまいと、神が分かるまいと、自分の勝手だと考えてはいけないのです。

命は、自分の持ち物では絶対にないのです。これは、現代文明の根本的な間違いです。命は天のものです。天然自然のものです。天然自然の本体を、神と言うのです。

神という絶対人格、宇宙人格から、私たちは人格を借りているのです。人間独自の人格があると思ったら大間違いです。人間の人格は、神の人格の反映なのです。

ですから、そのように考えて、自分の人格の働きを、宇宙構造の実体に従って用いるのは当然です。

自殺は、明らかに神の命を強奪していることになるのです。横領しているのです。これに対する審判は、最も厳しいことになります。人殺しより、放火より・、もっと悪いことです。今の文化人は、根本的に考え違いをしているのです。命の所属が分かっていないのです。命は、本来どこに属しているかということを、今の文化人は全然知ろうとしていません。これが、根本的な文明の間違いの原因になっているのです。

近代文明の性質が非常に困ったものです。十六世紀から十七世紀に近代文明が始まっています。近代文明の本質を申し上げておきますと、ユダヤ人のメシア思想が基礎になっているのです。

薮から棒にこういうことを申し上げますと、お分かりにくいと思いますが、ユダヤ人がかつてイエスを否定しました。神の子であるイエスを、十字架につけました。これは彼ら自身も心ひそかに、徹底的な失敗をしたらしいということに気付いてはいるようですが、この民族は非常に疑い深いのです。素直さがない民族でありまして、イエスは在世当時、繰り返し、繰り返し、ユダヤ人の頑迷さを痛撃したのですが、ユダヤ人は神の約束の民であるために、考え違いを改めようとしなかったのです。悪魔に見事にだまされていたのです。悪魔の奥の手が、ユダヤ人に集中されていると考えた方がいいかも知れません。

人間歴史は、ユダヤ人問題を抜きにしては分からないのです。日本の歴史をいくらひねり回しても、文明の本質の理解はとてもできるものではありません。

地球が造られたこと、万物が造られたことについて明言されているのは、旧約聖書だけでありまして、これはユダヤ人に与えられたものなのです。従って、旧約聖書の真髄にふれるということだけでも、日本人や普通の欧米人ではとてもできないのです。

ヨーロッパ社会は、キリストの福音が私たちよりも先に伝えられていました。紀元三百年頃に、ローマ帝国の王族、貴族が、全部洗礼を受けました。そしてキリスト教がローマ帝国の宗教のようになってしまいました。その結果、キリスト教が白人の宗教のように考えられてしまったのですが、実は聖書はユダヤ人に与えられたものであって、白人に与えられたものではないのです。

ユダヤ人は神の選民と言われているもので、民族の自尊心から考えますと、日本人はこういうことをなかなか了承しにくいのです。救いはユダヤ人のものです。これはヨハネによる福音書第四章二十二節のイエスの言葉ですが、日本の聖書では、救いはユダヤ人からくるとなっています。ユダヤ人からくるというのは、ユダヤ人のものであるが、異邦人にも流れ出しているという意味なのです。

これがなかなか分からないのです。ユダヤ人がへりくだって、神の国を受け止めているのならそれでいいのですが、イエスが十字架につけられた以後、いよいよ彼らがへそを曲げて、根性曲がりになっています。どうしてもイエスがキリストであることを信じたくないのです。自分たちの知恵才覚によって、彼らの国を地球上に現わしたいと考えているのです。

彼らの考えるメシアを擁立しようと企んでいるのです。これがいわゆるユダヤ人の世界革命という思想で、例えばマ〜クスの唯物論的弁証法なども、一つのユダヤ的なメシア思想だと言えるのです。こういうことが、世界史的に明らかにされていないのです。

日本人は特にユダヤ人問題については盲目です。ユダヤ人を悪く言いすぎる人もいますし、良くいいすぎる人もいます。日露戦争などの場合は、高橋是清などを通して、日本がユダヤ人の銀行家のシフに助けてもらったという事実はあるのです。菊花大勲位を明治天皇がユダヤ人に贈っています。日本がユダヤ人に世話になっている面もあるのです。

しかし世界史的な流れという広い角度から考えますと、ユダヤ人がイエス・キリストを信じないというのは、全く困った根性です。それが現在の歴史の混乱の原因なのです。

ユダヤ人の考え方、例えばダーウィンの進化論、フロイドの性に関する学説、マルクスの資本論という御伽噺のような思想が、現在の文明社会では非常に大切に扱われているのです。

日本には、いろいろな形でいろいろな思想が流れこんでいます。近代社会の人間の傾向は、資本主義、社会主義、その他の労働運動の思想、宗教運動の思想は、ほとんどユダヤ人が舞台裏の筋書きをしているのです。

本当の聖書の中心を見きわめることが、なかなか難しいのです。日本人の伝統的な思想は、いわゆる国家神道です。これは八百万の神という思想であって、現世主義の思想なのです。人間が地球上に生きていることが、重大なことのように考えています。

人間は地球上に生活することしか考えていないのです。この国に生まれて、この国につて、この国の歴史だけを考えています。この世で生きること、この世で暮らすことが、何よりも有り難いことのように思っているのです。そういう観点から本当の命を見つけることは並大抵のことではないのです。

日本民族は今述べたように、現世主義的な思想があります。それに加えて、近代文明が全く現世主義なのです。この世で幸福に暮らすことが目的なのです。文明の発達は、シビライゼ、ションという言い方が現していますように、文化的な生活を現世でおくることが、人間の目的のように考えさせられているのです。文明が物理的に、生活主義的に発達していることが、有り難くてしかたがないように思えるのです。

人々は人類が進歩していると思っています。ところが進歩しているどころか人間の精神は退歩しているのです。近代文明が広まったことによって、世界全体の人間の心の状態は、非常に退歩してしまっています。近代文明の害毒に汚されて、古代より、中世時代よりも、今の時代の方が人間の魂の状態は格段に悪くなっているのです。

これが分からないのです。これに気付いている人は多少はあります。ところが、それをどうなおせばよいか分からないのです。これが困ったことなのです。

結論的に言いますと、学問はすべて概念ばかりなのです。科学も、哲学も、法律、政治も概念が優先するという奇妙なものなのです。文明社会は錯覚のかたまりであって、全く五里霧中の世界になってしまったのです。

本当のことは何であるか、真実とは何であるか、誠の命、誠の神は何なのかが、まるで分からないのです。神の御霊によって、神の約束の真髄が開かれますと、それに基づいて旧約の本体、新約の本体を、実質的に究明できるのです。

悔い改めて福音を信ぜよと聖書は言っていますが、悔い改めることがキリスト教では分からないのです。心を新にせよとパウロは言っています(ローマ人への手紙122)。別のところでは、心の深みまで新にされてと言っています(エペソ人への手紙423)。

心の深みとはなにかと言いますと、英文では、ザ・スピリット・オブ・ユーア・マインド(the spirit of your mind)と言っています。つまり精神の霊です。精神の霊を新しくして、真の義と聖とを備えた神にかたどって造られた新しき人を着るべきだと言っているのです。

精神の霊を新しくするとはどうすればいいのか、心をかえて新にするとはどうすることか、これが分からないのです。精神の霊という日本語はないのです。日本人の常識の中には、精神の霊という言葉がないのです。ですから、精神の霊を新しくせよと言われても、どうしていいか分からないのです。

そこでキリスト教は、分かったことにしているのです。キリストを信じて、購罪論を信じて、救われたことにしているのです。しているだけであって、神の御霊によって精神の霊を新しくすることが、具体的に実現していないのです。御霊によって聖書を見る、御霊を崇めるとはどうすることかが分かっていないのです。

ユダヤ人の中には、神的にすぐれたグループと、悪魔的な考え方のグループと二つあり、現代文明は後者のグループによって形成されているのです。ですから現代文明は、滅亡に進む文明だと言えるのです。


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