18イスラエル回復の祈りを神は聞かざるをえない

般若心経には空ということを書いていますが、空の意味が分からないままで、ただ空という言葉を観念的に受け取っている。そのために、般若心経のせっかくの価値が読み取れなくなっているのです。

般若心経は絶対に宗教ではありません。般若心経は十二因縁とか、四諦八正道という仏教の唯識論の中心テーマを否定しているのです。

無苦集滅道と言っています。四諦を否認すれば、当然八正道を否認することになるのです。このように仏教哲学の中心ポイントを否定しているのです。無無明亦無無明尽と、十二因縁を否定しているのです。無明が尽きることもないし、老死も尽きることがないと言っているのです。

般若心経の言い方は、すべて一度否定したものを、又肯定しているのです。色即是空と言っていながら、空即是色と言っている。これが一般の人には分からないのです。

色即是空と言いながら、空即是色というのはどういう意味なのか。この説明が仏教ではできないのです。色即是空だけで通してくれればいいのですが、空即是色というのですから、分からなくなるのです。

無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法というと、人間の五官はないということになるのです。五官がなければ、人間が生きていることは何なのか。これについて仏教は、全く説明できないのです。

日本の思想には絶対がありません。絶対という言葉はありますが、その意味が分からないのです。絶対反対と言っていながら、いつのまにか妥協してしまう。なぜそうなるかというと、絶対という言葉の意味が分からないからです。ユダヤ人以外に絶対は分かりません。日本人だけでなく、欧米人全体も同じです。

絶対の本当の意味は何なのか。これは千年王国(キリスト王国)が現われないと、分からないのです。今の人間歴史が一度廃滅して、キリスト王国が現われると、絶対の意味が分かるのです。その時絶対が表面に現われて、絶対という原理が世界を指導することになるのです。それまでは、絶対 (神) と相括抗して、悪魔がいるのです。

人間が神をバカにすることができるのです。神を信じないでいることもできるので。死のうと生きようと、人間の勝手です。こういう生活状態では、絶対という言葉はありますが、事実はないのです。

そこで絶対という認識を持つことができるかどうかで、命の永遠の結論がつくのです。日本には絶対はありませんけれど、言葉がある以上、その事実がどこかになければならないのです。絶対という日本にはないものを、信じる気持ちになれるかどうかが、問題です。絶対を知るためには、宇宙の指導霊に基づいて学ばなければなりません。

この霊というのは、普通の新興宗教でいう霊とは違います。聖という言葉が使える霊です。聖という言葉の意味が、日本人には分からないのです。人間の心臓が動いていることが聖です。目が見えることが聖です。

目が見えることの実質は何であるのか。分からないのです。目が見えることは誰でも知っています。ところが、目が見えることの実質が何であるのか、単なるエネルギーなのか。仮にエネルギーであるとしても、エネルギーとは何かということです。これが日本人に説明できないのです。

今の日本の大学に絶対がありません。国にも憲法にもありません。政治にも人間の常識にも、教育、道徳にも、絶対がないのです。相対ばかりです。あれこれと比較して、損だ得だと言っている。

悪とは何か。良いものと比較して悪となるのです。善といっても悪といっても、利益といっても損害といっても、すべて相対現象のことを言っているのです。絶対的なものはないのです。

聖書は絶対を主張しています。日本人の思想にないことを言っているのです。だからなかなか同調できないのです。同調できる人は特殊な人であって、生まれつき永遠の命に適っている人です。

生まれつき永遠の命に適っている人は、聖書についていこうという気持ちになるのです。これを神の召しと言うのです。神の召命と言います。命を神が召している人、命を神に召された人は、普通の人が聞けないことが聞ける。又、聞かねばならないような気持ちになるのです。

今の時代は、神と悪魔が競り合っている時です。本当の善がありません。真実がないのです。やがてキリスト王国が現われると、本当の善が分かるのです。千年間の絶対平和、キリスト王国は、やがて現われるのです。二十一世紀中に現われるでしょう。

本当の善がないから、原水爆の廃絶についていくら話し合っても、押し問答になるのです。石垣に手を詰めたようになって、にっちもさっちもいかないのです。

国家主権ということをしきりに言います。かつて、旧ソ連の領空に、大韓航空機が誤って侵入し、旧ソ連によって撃墜され、多くの乗客が犠牲になりました。旧ソ連は、国家主権が侵されたので、撃墜したと言いました。国家主権のためには、数百人の人間を殺すのはあたりまえだと言うのです。

ところが、国家主権とは何かです。人間がお互いに、安全で便利に生活するために、国家を造っているはずです。人間の命を軽んじることになりますと、国家主権はおかしいことになるのです。人間の命を軽んじる国家主権を認めることはおかしいのです。

第二次世界大戦で、何百万人という日本人が死にました。そんなに多くの日本人が死ぬようなことを、なぜしたのか。その時欽定憲法がありましたが、それが人間的に認められるものであったどうかということです。薩長を中心にした政府が造ったもので、人間の良心が造ったものとは違うのです。

それが日本で通用したのです。天皇は神聖にして犯すべからずという概念が、日本で通用したという日本の国柄がおかしいのです。日本の国柄では天皇は神聖であるという考え方が通用するのです。こういう国は日本だけです。

一般的に、天皇や王が神聖なものであるという考えはありません。神聖という言葉ぐらいは使いますけれど、概念として使うだけであって、本当に神聖だと思っていません。日本の欽定憲法では、神聖だと思っていたのです。天皇の悪口を言うと憲兵隊に引っばっていかれて、場合によっては殺されたのです。これは日本だけで通用したのです。

明治時代に、日本の政治で、神聖という言葉が具体的に通用したのです。これは不思議な現象でした。たとえ四十五年間でも、そういう観念が日本で通用したということが、天皇制の特別の意味を示しているのです。

天皇制を日本の国民の立場からだけ評価すると、分からないのです。天皇制は世界全体の角度から見ると、キリストの影であることが分かるのです。キリストはザ・キング・オブ・ザ・キングスであって、あらゆる王たちの王がキリストです。この雛形が天皇です。だから天皇制の本当の意味は、世界的な角度から取り上げなければだめです。日本だけで見ていたのでは分かりません。日本だけで天皇制を取り上げると、必ず右翼思想になるのです。右翼は小さな観念です。日本だけしか通用しないのです。

キリストという概念は、全世界に通用するのです。この小さな雛形が、天皇になって現われるのです。キリストとは比較になりませんが、キリストという非常に大きいすばらしいものを、ぎゆっと締めて、小さな格好で現わしたのが天皇制です。広く大きい山の姿を、盆栽にしたようなものです。

天皇制をよくよく検討しますと、キリストが分かるのです。これが、やがて世界的に明かされる暗がくるでしょう。今日本が経済的な実力をつけて、世界第二位の経済大国になったこと、政治的にも発言力を増していること、世界中の人々が、日本人の発言に耳を傾けるようになっているのです。日本人を無視しては、世界の政治、経済が成り立たなくなっている。このようにしむけたのは神です。

私たちは世界全体の平和に関する、又歴史に関する最も重要なポイントの勉強をしているのであって、神とは本当の絶対です。空気が流れていることが絶対です。水があることが絶対です。絶対の人格的な要約が神です。キリストは神と人間を結び合わせる接点です。その小さな雛形が天皇になっているのです。だから天皇という称号を使うのです。王とは違います。エンペラーです。不思議な言葉です。これは現在、日本だけにあるのです。

絶対はなければならないのですが、それが今の日本人には分からないのです。私たちは絶対という人格を勉強しなければならないのです。人間の理性のあり方は、絶好のあり方のサンプルになるのです。

人間の理性のあり方は、世界中に共通しています。語学、数学、物理学が、世界中に通用するのです。

人間の理性のあり方が絶対です。この理性のあり方がどこから来ているのかと言いますと、ペルソナからきているのです。パーソナリティー(人格)という言葉は、ペルソナから来ています。

ペルソナは神の人格を言います。神の神たる事であるペルソナというラテン語が、パーソナリティーという英語になって、人間の人格というように訳されています。人間の人格があること、人格を無視することは許されないことが、絶対なのです。

人格を曲げることも消すこともできません。自分で人格を曲げようとしても曲げられません。悪いことをする時も、良い事をする時も、人格というジャンルの中でしかできないのです。殺人をする場合、泥棒をする場合でも、人格という範囲内から出られないのです。人格的な殺人にならざるを得ない。こういうことが絶対です。

絶対と自分との関係を精密に考えることです。これが命をまじめに見ることなのです。キリストという言葉は、絶対人格が地球を完成させる一つの方法です。ペルソナという絶対人格が、地球を完成させるための方法が、キリストです。キリスト計画です。これは神が神となるための計画です。現在神はいますけれど、神が絶対になっていません。神が神となることが、私たちの命の目的です。

神が神となることが、人間歴史の目的です。このことを、現代の学者、政治家、宗教家が全く知らないのです。神が神となるために、神が地球を造ったのです。

般若心経に色即是空という言葉があります。色即是空と言っていながら、空即是色と言っている。色即是空というくらいなら、空即是色という必要がないはずです。

ところが、色即是空七言っていながら、次に、空即是色と言っている。空であるものが、なぜ色になって現われているのか。色になって現われているこの現象世界が空であるということは、比較的分かりやすいのです。これは諸行無常と同じ意味です。

空即是色の方は難しい。色即是空の方は諸行無常で説明できますが、空即是色の場合は説明する言葉がないのです。

仏教の坊さんが空の実体が分からないのです。なぜ空が色となったのか。それは、絶対が絶対になるために、空即是色が実現しているのです。

今は神という概念がありますが、神の実物が分からない。なぜ分からないかと言いますと、人間が大きな顔をして生きているからです。人間が生きていることを認めると、神が.認められなくなるのです。人間が神になっているからです。

基本的人権という考え方は、人間を神としている思想です。人間が神よりも上にあるのです。だから信教の自由と言うのです。神を信じようが信じまいが、人間の自由だと言うのです。

人間の政治権力が、神よりも上にあることを意味するのです。こういう国柄では、神が誠の神であるという説明はできません。私が言っていることは、日本の憲法に反することかもしれません。現在の世界の文明の基礎概念に反することを言っているのです。私は基本的人権を無視しているのです。これは文明に対する重大な反逆になるでしよう。

基本的人権という考えは間違っています。これが分からなければ、本当の神は分かりません。本当の神が分からなければ、永遠の命は分かりません。従って、自分の命の目的を発見できなくなるのです。自分の命の目的が発見できないということは、何のために生きているのか分からないということであって、同時に、その人の人生は、この世に生きている間だけのものになるのです。この世を去ればだめになるのです。現世の常識は、現世だけしか通用しません。神なんかあるもんかという思想は、現世でしか通用しないのです。私は永遠に通用する思想を申し上げているのです。

現世でしか通用しない思想で考えている人の命は、現世だけのものです。神の前には通用しません。現世では、私の言うことはほとんど通用しないでしょう。そのかわりに、神の前に通用します。

この世で生きていることを目的としないで、永遠に生きていることを目的とするなら、私の言うこと、聖書が言うことを、ぜひお聞き下さい。ご利益があるのです。商売繁盛、家庭円満どころではありません。ご利益が大きすぎて困るくらいに大きいのです。永遠の命を得ることができるのです。これが現世で一番欲深い考えです。本当に欲が深い人は、永遠の命をねらうべきです。

本当に永遠の命をねらうなら、自分の命をかけなければだめです。神に命を召されることを承知して、聖書の勉強をはじめると、初めて、聖書が絶対であることが分かるのです。命を召されることを承知しないで、命は自分のものだと思っている人が聖書を勉強してもだめです。結局、この世の慰めになるだけなのです。

人間の人格の基礎は、絶対から来ています。絶対を認めると、自分自身の人格の根源が分かるのです。本当に徹底的に、論理的に考えようとすると、神を信じるしかないのです。ところが、神を信じると言いますと、非論理の世界、超自然の世界に入っていように考えられるのです。しかし、現世の論理を超えた所にこそ、本当の論理の世界があるのであって、現世の人間の中には、本当の論理性はありません。自分が何のために生きているのか、自分の命は何であるかが説明できないのですから、そういう人間社会の中で、論理の原点があるべき道理がないのです。論理の目的は何か。神を知る以外に、目的はないのです。

今の学問は目的がないものばかりです。ユダヤ人がわざと、こういう学問を世界にばらまいているのです。ユダヤ人自身が目的をつかまえて、それを隠しているのです。

ユダヤ人だけが神を知って、異邦人は動物だから、神を知る必要はないというのです。ルネッサンスという言い方で、目的がない論理を、世界にばらまいたのです。これが専門学です。

専門学は部分学です。部分的な学問ばかりをばらまいた。部分的な学問全体を、どのように集約するかを、ユダヤ人は隠したのです。大学の全体を集約する方法、人間の学理全体を集約するとどうなるかを、ユダヤ人は隠しているのです。人間全体を集約したのがキリストです。学問の全体を集約すると、行きつく所はキリストです。これをユダヤ人は隠しているのです。こういう根本的な、基本的な問題を提出することが、私たち日本人の目的です。

今の人間の生活には、絶対的認識がありません。これを、できるだけ皆様のハートの中に入れて頂きたいのです。マインドの中ではありません。ハートの中に入れるのです。

山の姿を見たり、花を見たり、動物を見たりする。そこに皆絶対があるのです。バラがバラであることが絶対です。バラは絶対的なバラを現わすしか、他に方法を知らないのです。人間のようにおべっかをして愛想をすることはできません。バラという格好しかできないのです。だからバラをじっと見ていると、絶対のすばらしさ、絶対のかわいらしさが分かるのです。花の心が信仰の心になるのです。

花が花であることを確認すると、神が神であることが、だんだん分かってくるのです。人間の生活に本当の安心があること、世界に絶対平和を実現すること、完成された地球を実現するためにはどうしたらいいのか。地球に住んでいる人間が、絶対を信じればいいのです。地球に住んでいる人間が絶対を信じれば、疫病やガン、エイズ、犯罪、洪水、飢餓、戦争がない地球を、実現できるのです。人間のパーソナリティーは、神のペルソナの分派です。人間のパーソナリティーによって神を信じると、神を動かことができるのです。神を動かすことができますと、地球の絶対条件を変えることができるのです。地震、台風、噴火のない世界を、私たちの信仰によって造り出すことができるのです。人間は不完全な地球を、完全な地球に造りかえる責任を持っているのです。

人間のパーソナリティーは、神のペルソナの出張所です。出張所の願いが本店に分かりますと、本店のご都合をかえることができるのです。私の人格は神の出張所ですから、出張所から本店の方へ、色々と申し入れをするのです。一回や二回では聞いてもらえませんけれど、とことん言い続けると、神の方では聞かなければならないことになるのです。

あるおばあさんと、冷酷無残な裁判官がいました。おばあさんが、人に財産を取られたと訴えるのですが、なかなか聞いてもらえない。訴訟をするお金も知識も、力もないのですから、ただ裁判所の門を叩いて、お願いしますと言うしかしかたがなかったのです。毎日門を叩きにくるのです。正式な手続きをしなければだめだと断られても、毎日くるというのです。

とおとお、しようがないから、裁判官が話を聞かなければならないことになった。どんな冷酷無残な裁判官でも、とうとう話を聞かなければならないことになるのです。それはおばあさんが正しいのではない。うるさくてしょうがないから、聞いてやることになったのです。

私たちも、この方法を使って神にねだるのです。何をねだるのかと言いますと、ユダヤ人の頑な心をかえて下さいとねだるのです。私は神の国へ行かなくてもいいですから、ユダヤ人の心をかえて下さいと神に願うのです。いつまでも、とことん、神に言い続けるのです。

今の世界の絶対多数の人間は、無情な裁判官みたいなものです。ユダヤ人が悪いと言っても、絶対に聞かないのです。聞かないけれど、何回も、何千回も、何万回も言い続けると、とうとう聞かなければならないことになるのです。

中国に愚公山を移すという諺がありますが、私は山を移そうとしているのです。大山を人間の力で移すことはできない。しかし、どうしても移さなければならない。そこでスコップで山を移し始めたのです。やがて、大勢の人が、この仕事に加わることになるでしょう。

愚公山を移すというこのばかみたいなことが、できるのです。全知全能の神を、人間の信念で動かすことができるのです。これが人間のパーソナリティーの特徴です。

全知全能の神に、一つだけ弱点があります。これは人の祈り、誠心誠意の人の祈りを、神は聞かずにおれないということです。これが神の弱点です。誠の神にはこういう弱点があるのです。これが神の性器です。ここをしっかりにぎってしまえば、強いものです。

神のネーム(実体)を正しく知って、祈るのです。神のネームが分かって祈るのです。キリスト教の祈りは、神のネームが分からずに祈っているのです。だから、何を祈っても、神の方に通用しません。神のネームによって祈ると、神は聞かざるを得ないのです。私(イエス)の名によって祈るものには、何でもかなえると、聖書に書いてあるからです。

神の名によって祈るものには、どうしても神は聞かなければならない義理があるのです。私は神の名によって祈っているので、私の祈りは必ず実現されるでしょう。世界歴史の現実として実現されるでしょう。やがて、誤った世界の文明は崩壊します。必ずそうなるのです。


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