19神はイエス・キリストの復活によって、すべての人を新しくした

自分の意見を持っていることが、一番悪いのです。自分の命を信じている状態で、いくら聖書を勉強してもだめです。

自分の意見を持っている者は、自分を信じているのです。宗教は信じても信じなくてもどちらでもいいのですが、イエスの復活は信じなければならないことなのです。せいぜい信じましょうということではいけないのです。

今の命を持ったままでは、復活の命は信じられません。二つの命を同時に持つことはできません。今持っている命を捨ててしまわなければ、新しい命をつかまえることはできないのです。

やり方については、色々と方法があるでしょう。それをいくら聞いても、今の自分の命を捨てて、新しい命をつかまえるのでなければだめです。今の命を持っていてもしかたがないし、やる気がなければ聖書の勉強をしていてもしかたがないのです。

今生きている命は、死ぬにきまっている命です。復活の命は死なないにきまっています。死なないから復活したのです。

皆様は復活の命をまともに受け取っていないので、死ぬしかないのです。復活の命を受け取る。これは上手も下手もありません。やる気があるかないかだけです。本当に自分の霊を渡して、神を信じると決心したとしても、決心をしたからすぐに実感がくる訳ではありません。実感が胸にくるためには、霊を渡したという状態をある程度続けていかなければいけません。これでいいのだという所まで、なかなかいかないのです。

羊は自我意識を持っていなくて、ただ生きているだけです。おべっかしようとも思わないし、しかられるとも思わない。人間も羊も同じだと思っているのです。

神と人間との関係もこうなるのです。神を警戒したり、神を信じることが難しいと思ったり、胸に一物を持っていますと、神の方でも胸に扁持つのです。

ィンマヌエルですから、神は私たちと共にいるのです。自分が思っていることが、そのまま神に分かるのです。自分がひがんでいる気持ちを捨ててしまうと、捨てたことが神に分かるのです。そうすると、神と自分との間に行ききする道が開かれるのです。自分を捨てると、すぐに神が分かつてくれるのです。

今日は何か自分がこだわっていると思ったら、その気持ちを捨てたらいいのです。すぐに神と自分の関係が修復されるのです。円満にいく状態になれるのです。

自分の立場、自分の意見を捨ててしまうという決心をするのです。決心をせずに、いくら学んでも、決してものにはなりません。

自分の気持ちを持ったままで、自分を捨てると言ってもだめです。神が分かりません。神が分かるような捨てかたをしなければいけません。相手は神ですから、本当に自分を捨てると、その気持ちがすぐに神に分かってもらえるのです。そうすると、神の気持ちが、自分に流れてくるのです。

神に自分の霊を渡したからといって、今の生活が消えるのではありません。今の生活をやめてしまえと神は言わないのです。言う必要がないのです。ただ、今までの自分の意見とか、自分の気持ち、自分のやり方を捨てるだけのことです。生活をやめよと言っているのではありません。生活についての自分の意見を捨てるのです。はっきり捨てるという決心をするのです。

人間は肉体を持っていますから、決心をしても、ふらふらするでしょう。ふらふらしたら、もう一回決心しなおしたらいいのです。何回でも決心しなおすのです。

破れた障子を張り替えるように、何回でも治したらいいのです。失敗するのがいけないのではなくて、はっきり決心しないことがいけないのです。決心してからでも失敗することはあるでしょう。失敗しない方がいいに決まっていますが、失敗したら何回でもやり直したらいいのです。

はっきり決心ができるとすれば、それが神に分かるに決まっています。自分の理屈を言わないのです。

御霊を受けても崇められないのは、自分の命を持っているからです。信仰の訓練というのは、上手も下手もない。ただ実行するだけです。まじめに実行しなければ、結局だめです。

聖書に御霊を受けるという言葉があります。これはどういうことかと言いますと、神の命が宇宙のエネルギーとして地球に働いています。命が森羅万象として現われたり、聖書の言葉として現われている。それと一つになることが、御霊を受けることなのです。

御霊を受けるということは、イエスの復活を受け入れる素質を与えられたということです。

人間は自分の意見を無視すると、何か危なかしい気がします。自分の感情を踏みにじられるような気がするのです。羊はそういうことを全然考えません。自尊心を全く持っていないのです。

羊の顔を見れば分かりますが、ただ、たんたんとして生きているだけです。そのような状態でいいのです。皆様が神を信じるというのは、羊のように生きればいいといぅことです。上手も下手もないのです。導かれていることをそのまま受け取ればいいのです。

羊はよく見られようとか、騙されるとか思わない。羊を騙しようがない。自我を持っていないからです。欲も得もないのです。欲がなかったら、ひっかからないのです。皆様がそのようになればいいのです。

ありのままに生きればいいのです。人間としての理性を持ちながら、羊のようになればいいのです。それ以外に条件はありません。そうなれば、神は絶対に救います。

神は責任をもって、必ずもう一つの命、今まで生きていた命ではない、別の命を必ず与えるのです。本当に羊のようになったらいいのです。

羊のような状態が、人間の霊魂の本質です。人間の霊魂は素直なものです。聖書の言葉をまっすぐに受け取れるのです。

人間がだめです。人間が自分の霊魂を踏みつけているのです。霊魂の自由を束縛しているのは人間です。人間の本心、本願は、羊のようです。ところが人間がいけないのです。霊魂を踏みつけているからです。

人間はそんなことをいわれたら困るとか、そんな事は損だとか、世界の常識に反するとか、色々文句を言うのです。損も得もないのです。損をしてもいいのです。得をしなくてもいいのです。神が面倒を見てくれますから、神を信じて、羊のようになったらいいのです。

現実が父なる神ですから、現実に一任するのです。そうするとすべてのことを神が与えてくれるのです。

復活の命を自分の命とすることが、もう一つ分からないという人がいるでしょう。それについて、パウロは次のように述べています。

「しかし、信仰による義は、こう言っている、『あなたは心のうちで、だれが天に上がるであろうかと言うな』。それは、キリストを引き降ろすことである。また『だれが底知れぬ所に下りるであろうかと言うな』。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。では、なんと言っているか。『言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある』。この言葉は、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書は、『すべて彼を信じる者は、失望に終わることがない』と言っている」(ローマ人への手紙10611)。

このとうりにしたらいいのです。このとうりにしようと思ったら、口にてイエスを言い表わし、心にて神がイエスを死人のうちから廷らせたことを信じるのです。

ところが、神がイエスを死人のうちから延らせたことを信じても、何か救われた気がしないように思えるのです。誰がそう思うのか、自分がそう思うのです。自分の根

性を神に渡すか渡さないかで、勝負が決まるのです。

分からないと思うのは、死んでしまうに決まっている自分です。死んでしまう自分が、なぜ分からなければならないのでしょうか。イエスが主であると口で言って、心で復活を信じること、条件はこれだけです。霊を渡してこれを実行すれば、すぐに救われるのです。分からないと思っているのは、死んでいく自分です。

誰が天に上がるのかとはどういう意味かと言いますと、誰が救われるだろうかと考える。自分が天へ行きたいと考えるのです。

人間は自分が滅びて地獄へ行くだろうと考える。自分が地獄へ行くだろうと考えたら、キリストが地獄へ行ったことがむだになるのです。

天へ上がったのはキリスト一人でいいのです。地獄へ下ったのも、キリスト一人でいいのです。自分が天へ上がるとか、地獄へ行くと考える必要がないのです。

自分が救われなければならないと思う必要はありません。妄≡体です。霊魂は世界に一つしかないのです。イエスの霊魂があり、自分の霊魂があり、他人の霊魂があると考えなくてもいいのです。

イエスが救われたら、自分の霊魂も救われているのです。イエスが主であると信じたらいいのです。イエスの運命が自分の運命であると考えたらいいのです。イエスが私たちの代表だと考えたらいいのです。他の者は救われる必要がないのです。こういう点で、キリスト教は大変な間違いを犯しているのです。一人ひとりが、皆、天国へ行かなければならないと思っているからです。

誰が天へ行くのか。私はこんな状態だから救われないと考えなくてもいいのです。イエスが天へ行ったから、自分は救われなくてもいいのです。イエスが私の主であることをはっきり信じること、羊のような顔をして信じたらいいのです。そうすると、全部、イエスと同じように扱われるのです。自分という顔を別に持っているから、いけないのです。

神がイエスを救ったのは、すべての人を代表して救ったのであって、イエスがキリストになったのです。

キリストとは、すべての人間を代表するのです。これが、神が地球を造った計画です。キリストという人類の代表者を立てて、この代表者によって、すべてのことを処理しようと神が考えたのです。これがキリスト計画です。地球を造ったのは、そういう計画なのです。地球を造る計画は、キリストを造る計画なのです。

代表制度にしないと、人類の一人ひとりをいちいち救わなければならない。そんなことはできないのです。自分が救われると考える必要がない。イエスが救われたので、救われたイエスを信じたらいいのです。救われたイエスの運命を、自分の運命として黙って受け入れたらいいのです。

イエスの運命をもらおうとしますと、自分が生きていたのではだめです。羊のようになってしまわなければいけないのです。

黙示録に書かれているのが、救われる人間の運命です。

「また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。(それ以外の死人は、千年の期間が終わるまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。

また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたがハもう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。

死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の他に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の他に投げ込まれた」(ヨハネの黙示録2046)。

ここに第一の復活という言葉があります。第一の復活にあずかる者というのは、現世に生きている自分の命を捨ててしまって、イエス・キリストの命にのりかえた人を言います。イエス・キリストの命に乗り換えた人にとって、第二の死は何の力もないのです。

聖書に、「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることが、人間に定っている」(ヘブル人への手紙9・cとありますが、第一の復活にあずかる人は、死んだ後にさばかれないのです。この命に乗り換えてしまえばいいのです。

第一の復活という命に乗り換えてしまいますと、第二の死、神の霊魂の裁きに、関係がなくなるのです。キリストが裁かれてしまったので、キリストの命をもらってしまえば、裁かれることがなくなるのです。

その人間を裁いたら、神の二重取りになるのです。神は二重取りはしません。キリストが一度地獄へ行ったのですから、キリストの命をそのまま自分が受け取ってしまうのです。イエスが主であるとは、そのことなのです。イエスが主であることを信じるとその人はさばかれなくなってしまうのです。自分の命を捨てて、イエスの命に乗り移ってしまうのです。

自分として生きることをやめてしまうのです。イエス・キリストが復活して命が変ったのですから、イエスの命を自分が生きるのです。イエスとして生きるのです。イエスほど上等の行いはできませんけれど、できなくてもかまわないのです。神がそうしなさいと言っていますから、そうしたらいいのです。

これがいやな人は、神の裁きにあうことになるのです。

「また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も、火の中に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた」(ヨハネの黙示録201215)。

命の文に名がしるされていない者は、全部火の池に投げ込まれるのです。火の池はどういう所かというと、次のように書かれています。

「そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである」(同2010)。

今の命なら若しかったら、死ねるのです。ところが新天新地(第二の死が実行される所)になりますと、苦しくても死ねないのです。死を取り上げられてしまいますから、苦しむしかない、泣くしかないのです。しかもこれが永遠に続くのです。

生きているうちになぜ聖書を信じなかったのかと言われるのです。生きているうちに聖書を信じなかったので、どうぞ許して下さいといってもだめです。生きているうちに、なぜそれをしなかったのかと言われるのです。悲しみ、歯がみするであろうとはこのことです。歯ぎしりして後悔してもだめです。世々に限りなく、こってりと苦しまなければならないのです。

死人はその仕業に応じて、命の書に書かれていることに従って、裁かれた。命の文とは聖書のことです。聖書に書かれていることに従って、死人が裁かれる。

聖書は絶対であって、分かるとか分からないとか言ってもだめです。聖書は神の言葉ですから絶対です。聖書が分からないとなまいきなことを言う資格はないのです。

絶対は絶対です。分からないと思う人は、地獄へ行けばいいのです。信じようと思えば、聖書の言葉は誰でも信じられるのです。信じるとか信じないとか言っているのは、本人のわがままです。

自分が分からなければいけないと思っている。なぜ自分が分からなければいけないのでしょうか。皆様の命は、地獄へ行くに決まっている命です。地獄へ行くに決まっている命を持っている人間が、聖書が分からなければならないと、なぜ思うのでしょうか。

自分に聖書を分からせようと思う必要がありません。自分の思いは、肉の思いに決まっています。肉の思いに見切りをつけて、捨ててしまうのです。分かりたいと思うのは、肉の思いがそう思っているだけです。分かった所で、地獄へ行くだけです。

命を取り替えるのです。死ぬべき命をやめて、死なない命に取り替えたらいいのです。

神の前に通用するのは、キリストの信仰だけです。キリストの考え方だけです。キリスト以外のものは、神は一切聞きませんから、しかたがないのです。

イエスをキリストにしたということは、イエスをすべての人間の代表者にしたということです。そのように決まってしまったのです。イエスだけしかキリストはないのです。イエスがキリストであることを信じるのは、キリストと同じに扱ってくれるということになるのです。

神はイエスしか認めていないのです。イエス以外の人間は認めないからしようがないのです。神はイエスだけでいいと言っている。イエス以上の立派な人があってもだめです。神はイエスだけでいいと言っているのですから、しようがないのです。イエスは聖書にある信仰、霊の思いを全部実行したのです。聖書の説明は、イエスのある部分の説明になるのです。聖書はどう説明しても、イエスがしたこと、又、彼の考え方の義を説明していることになるのです。

聖書の全部がイエスの言葉ばかりを書いているのですから、聖書の説明はイエスの人格の説明になるのです。これしか神は認めていないのですから、イエス以上の立派な人でもだめです。イエスでなければだめなのです。

神は新しい命を私たちに提供しているのです。ペテロは言っています。

「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある。朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである」(ペテロの第一の手紙134)。

イエスを死人のうちから延らせたことが、皆様を新に生んだことなのです。その命をもらわなかったらだめです。もらわない人が悪いのです。

イエスの復活というのは、すべての人間を新に生れさせたことなのです。それを信じないで、自分の命がある、自分が救われなければならないと思う。これが間違っているのです。

自分が救われる必要はない。イエスが復活したことによって、すべての人間は新に生れさせられている。これを黙って受け取ればいいのです。これ以上のことを、神はすることができないのです。

神は一人ひとりの人を新に生れさせることはできない。人類の代表者であるイエスを復活させたのだから、それを受け取ればいいのです。

イエスが、新しく生れる、水と霊とによって新に生れて、神の国に入れと言ったのは、イエスの復活を信じることによってできるのです。

皆様に新しい命が与えられているのです。この命を受け取ればいいのです。これだけでいいのです。分かるとか分からないとか、がたがた言う必要はない。聖書が分かるとか分からないとか、がたがた言っているのは、皆様の内にある悪魔が言わせているのです。

神から見ると、すべての人は皆新しくなった人ばかりです。新しくなっていますから、自分が分からなければいけないとか、これからどうなるかを、心配する必要はありません。

神はすべての人を全部、完全に救ってしまっているのです。有り難いことです。黙ってこれを受け取ればいいのです。


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