21イスラエルを指導する原理

エホバの安息が、ユダヤ人に分かっていないのです。聖書に「神が造ったすべてのものを見られたところ、それは、はなはだ良かった」(創世記131)とありますが、それはどういう事なのか。その前に、三日目にも、四日目にも、五日目にも良かったとありますが、甚だ良かったというのは、万物と人間を造った後に言っているのです。

甚だ良かったということは、その時点において、神の約束が成就したということですが、これがイスラエルに分からないのです。成就していなければ、甚だよかったというはずがないのです。

神的な意味で、甚だ良かったという言葉が使えるのは、約束が成就している状態を言うのです。そこで、もうすることがなくなった。そして七日目になったのです。

七日目はどういう日かと言いますと、完全安息の日です。神は七日目を祝福して聖別した。祝福と聖別と、二つのことをしたのです。祝福も絶対、聖別も絶対です。神が祝福し聖別したということは、創造が完全に成就したことを意味するのです。そこで神が安息したのです。

もし神が安息しなければ、アダムが罪を犯すはずがないのです。アダムがエデンの園で罪を犯したとはどういう事なのか。その前に、人祖アダムがどうしてエデンの園にいたのか、エデンとは何かです。エデンでは、今私たちが考えているような時間の概念はなかった。夕となり朝となったとありますから、私たちが考えているような時間の概念ではない時間があったのでしょう。

七日目という言葉が、神の創造という音蕪での七日目と、安息が始まってからの七日目と、両方の意味があるのです。

人間全体の歴史を七千年とした場合、最後の千年間が、七日目です。これは神の王国が実現する、完全時代を意味するのです。

完全時代というのは、神の約束が人間の歴史に実現する時代です。神の安息が、歴史的な実体として、現われるのです。これが七日目です。

神の安息が七千年間地球に実現しますが、最後の千年間に、完全に実現します。これが神の王国ですが、地球上に、戦争、犯罪、病気、自然災害が一切ない、驚くべき平和が、千年の間実現するのです。これが聖書に預言された千年王国で、必ず実現するのです。

神はアブラムに現われて、「私は全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」と言いました(同ワ1)。これはどうすることかです。神の前が分からないのです。神を信じると言いますが、神の前に歩んで全かれとならなければ、いくら信じたといってもだめです。私の前に歩んで、全き者であれ。アブラムはこれが分かったのです。神の前とはどこか。これがアブラムに分かった。そこで平伏したのです。分かりましたとも、アーメンとも言っていない。ただ黙って平伏した。これが安息を受ける姿勢です。黙って平伏するのです。分かりましたと言ったら、もうだめです。

例えば、新大阪から新幹線に乗れば、自然に東京駅に着きますから、黙って座っていればいいのです。アブラムはこれをした。この姿を、神が認めたのです。

私たちも、この姿が絶対に必要です。神の前に平伏していれば、神の御名がその人の額に印されるでしょう。これが生ける神の印(the seal of living God)です。私たちが生ける神の印を額に受けますと、ユダヤ人が平伏することになるでしょう。これは聖書に預言されていることなのです(ヨハネの黙示録39)。

説得しなければならないような伝道は、だめです。イエスは説得していません。ただ御名を伝えただけです。

モーセの十戒の冒頭に、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」と言っています(出エジプト記203)。又、「安息日を覚えて、これを聖せよ」と言っています。

聖とするとはどうすることか。例えば、目の前に菊の花があるとします。菊の形を見ているのは人間的な見方です。これは聖としていないのです。菊の花の状態のままで、菊ではない別のあり方を見る。これが聖とすることです。

菊の花の状態のままで、菊の花でないものにしてしまう。そうすると菊が救われてしまう。アブラムにこれが分かったのです。

実は菊の花は菊の花ではない別のニュアンスを持っている。神の言葉として、神の国として、又神の栄光としての実体があるのです。これが分かることを、菊の花を聖としていることになるのです。

安息日を覚えて、これを聖とせよ。これだけの言葉では、その意味が正確に分かりません。なぜ神が説得しないのか。もっと分かりやすく説明しないかです。ところが、十戒で長々と書いたら、権威がなくなるからです。

神が造った菊の花の原理が、菊の花になっている。菊の花を神の側から見るのです。そうすると、人間が見ているものと違ったものになってしまいます。菊を聖として見ますと、菊の花が霊(本質)になってしまう。こういう見方ができた人が、神の安息に入れるのです。

神が菊の花を咲かしているということが、神の約束に係りがあり、新天新地に係りがあることが分かるのです。その人は神の国に入れるのです。

菊の花を聖とすると、その人は神の国に入っているのです。安息日を聖とすれば、すぐ神の国に入れるのです。異邦人の私たちに、安息日を聖とするという意味が分かることは、大変なことなのです。

創造の第七日目に、なぜ神は安息したのか。これは神の約束の絶対性を示していて、神が約束の中に安住したのです。現在、約束が流れているのです。仏教はこれを、ダルマ(法)と言っているのです。

私たちの肉体は、自然法以外の何者でもありません。心理機能も又、自然法以外の何者でもない。生理機能とは何か。心理機能とは何か。これが神の約束です。機能することが御霊です。

今、肉体的にこの世に生きていることが、七日目です。自然法が流されている時は、七日目です。これを覚えて、六日間働いたらいいのです。

今は神の安息日です。しかし、おなかがすくし、働かなければならない。仕事をしていても、心は同じです。安息の心で仕事をしたらいいのです。外見的に見れば仕事をしていますが、心は安息日にあるのです。

人間が鼻から息を出し入れしている時間も、神は安息の中に入れているのです。鼻から息を出し入れしていることが、神の安息の証明になるのです。この事実を弁えなければいけないのです。

この世に生きていることが、安息を意味するのです。聖とするとはどういう意味なのか。人間の生理機能が現世で働いている。その本質が聖なのです。現象世界が造られたのは、悪魔を打倒するためです。悪魔はどこにいるかと言いますと、人間の意識の中にいるのです。人間の意識が、打倒されなければならないのです。自分が救われるどころか、自分自身の意識が、神の世代のあり方によって倒されてしまうことが、天地創造の目的なのです。

固有名詞の人間がいた所で、何にもなりません。ただ死ぬだけなのです。人間は何を考えようと、結局死ぬだけなのです。それ以外に、何もない。これを良く考えなければいけないのです。

個々の人間は死んでしまう。文明はやがて潰れてしまうのです。冷静に考えればよく分かるのですが、個々の人間も、文明も、未来永劫に続くものではありません。人間文明も、個人も、全くむなしいものであることが分かっていながら、なぜそれにしがみついているのかと言いたいのです。

固有名詞の人間にこだわっていても、何の見込みもありません。人間文明は無目的ですし、人間が考える理想は、虚無的なものです。人間の考えることは、皆原罪です。

原罪によって生きている人間が、何を考えようと、すべて原罪の産物です。原罪の塊である人間、錯覚の塊である人間にこだわってみた所で、なんにもならないのです。

そこで考えなければならないことは、イエスの復活ということです。六千年の人間文明の中で、たった一つ、イエスが復活したことだけが光っているのです。これだけが意味を持っている。これ以外の人間がした事は、一切合切、無意味なことです。

宗教は誰がどんな事を言おうと、ただの教義にすぎないのです。しかもその教義は、人間が理屈を並べているだけのことであって、客観的な真理性は、一つもありません。

そういうものを信じても、何にもならないのです。人間は形態的には生きていますが、内容的には死んでいるのです。死んでいる人間、死んでいった人間の理屈は、皆、どこか間違っているのです。

日本の国が成立した原理は、シャーマニズムです。日本はシャーマニズムを基礎にした国ですから、この国の本質はバカみたいなものです。

釈尊が示した空は、教えではありません。イエス・キリストの復活も、教えではないのです。キリスト教は、宗教ではない復活を、説明できません。復活の実質、実体を、はっきり捉えていないからです。復活は科学的にどのようなことを意味するのか。

哲学的にどのような叡智を与えるのか。復活の命を経験していないと、説明できないのです。

固有名詞の人間は、はっきりした理想も持っていないし、結論もない。人間自身を聖として見ることができないものは、自分自身を成仏させることができないし、万物を成仏させることができないのです。

まず、釈尊の空を悟ることが必要です。その後に、復活の命を学ぶことができるのです。パウロは次のように述べています。

「アブラムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、『わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした』と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」(ローマ人への手紙417)。

全能の神と、無から有を呼び出される神と、どう違うのか。パウロはなぜ、無から有を呼び出される神と言ったのか。パウロは、アブラハム本人に、聞いたような書き方をしています。アブラハムが信じた神は、こんな神であったと言っていますが、なぜそのように言ったのでしょうか。

信仰者は、千年前で前であろうが、二千年前であろうが、同じであって、人間の思考方式は、根本的に全く同じです。

多くの国民の父とは何を意味するのか。アブラハムという言葉が、多くの国民の父を意味するのです。終局的には、新しいエルサレムを意味するのです。多くの国民の中から選抜されたものが、現在の地球が消滅した後にできる、ニューエルサレムに入るのです。

新しいエルサレムには十二の門があって、その門にはイスラエルの十二部族の固有名詞が、しるされています(ヨハネの黙示録2112)。神の約束の民、イスラエルの民としての自覚を持たないものは、ニューエルサレムに入れないことになるのです。

アブラハムの末という自覚を持っている者だけが、入れるのです。アブラハムの末という言葉は、肉の末を意味するのではない。神の信仰の末を意味するのです。

アブラムが変質して、アブラハムになった。そこで、肉の人間は、ことごとく、十字架によって変質させられなければならない。この世の人間が消えて、一人になってしまうのです。

多くの国民の父というのは、人間の総括を意味するのです。総括する支配人ではあるが、頭ではない。命を意味するのです。絶対支配者ではないのです。

アブラハムの懐についての経験を現世で与えられたもの、それを収得した者、その実体を会得し、了解した者が、ニューエルサレムに入るのです。

新天新地が理想的な形で実現する前に、まず仮定的な形で現われます。これが千年王国です。地球上に、千年間の絶対平和の時代が現われるのです。

新天と新地が、まず仮定的な形で現われるのが、千年間のキリスト王国です。ところが、千年間のキリスト王国は、人間が願っていた、最高の理想状態です。この最高の理想状態が現われる前に、準備状態があるのです。現世における準備状態が第一です。これが歴史的に実現するのが第二です。第三は、完壁無類の完成された状態が出現する時です。

第一が、イエス・キリストが誕生した後の時代、いわゆるキリスト紀元の時代です。第二が、千年王国の時代、第三が、新天新地の時代です。

現在は、キリスト紀元の時代です。新約時代、キリスト紀元の時代の本質を、神的に正しく捉えた人が、千年王国の指導者、ユダヤ人の指導者になるのです。霊なる人間として、イスラエルを指導するのです。この人が、最終的に、新天新地の住民になるのです。

新天新地の住民は、ただの住民ではありません。世々限りなく王となるべき住民です。新天新地には、ただの住民もいるでしょう。恵みによって、救われた住民もいますが、イスラエルの十二部族の名がしるされている者で、入ることが許されている者だけが入るのです。

千年王国で、イスラエルを指導した者は、新天新地においても、イスラエルの指導者となるでしょう。どちらにしても、現世で神の安息に入りえた者が、千年王国の指導者になるのは、間違いないのです。

アブラハムは、どんな神を信じていたかと言いますと、死人を生かす神です。英訳で、ギプス・ライフ・トウ・ザ・デス(gives life to the death)となっています。死んでいる者に、命を与えるのです。

これは、神が完全に、死を圧倒することを意味するのです。神が悪魔を完全に圧倒する。神の完全勝利を意味するのです。

死人に命を与えることになりますと、悪魔がいるべき所がなくなるのです。アブラハムはこれに成功したのです。悪魔が完全に滅ぼされることになったので、新天新地を予測できたのです。

アブラハムの信仰は、遥かに、新天新地を望み見ている信仰です。そこで、アブラハムの信仰とは一体どういうものなのかということです。死を命に切り替えてしまう信仰です。その信仰は何かと言いますと、アー・ノット(are not)をワー(were)と呼んでいるのです。なきものを有るがごとくに呼んでいる信仰です。

一体、わたしたちが見ている現象世界はどういうものか。アブラハムはそれをどのように見ていたのかということです。

神が、アー・ノットをワーと呼んでいることの意味が正確に分からなければ、私たちが、死から命に移ることができない。悪魔の束縛から、逃げることができないのです。

アー・ノット(are not)であるものを、アー(are)と呼んでいるのなら、分かるのです。ところが、ワー(were)と呼んでいる。これが分からないのです。

これは驚くべき秘密です。私たちは、幼児のようになればいいのです。あれこれと、色々考える必要はないのです。

だいたい森羅万象は、あってもしかたがないものです。万物の創造とは何か。神は現象世代を造ったのです。現象世代というのは、宇宙的に言えば一過性の現象であって、暫定的なものにすぎないのです。

現象世界は、荒野における幕屋であって、本当の幕屋ではありません。契約の幕屋は、契約を固くするための、暫定的なものにすぎないのです。ニューエルサレムの神殿ではないのです。

現象世界という契約の幕屋は、一時的なものにすぎないのです。不自由の世界です。現象とは何か。菊の花が咲いているとします。その本体は何か。神がコール(call)しているのです。コールしているとはどういうことか。呼んでいるという形態があるだけなのですが、呼んでいるという印がなければならない。

神があったものとして呼んでいる。あったものというのは、現実にはないのです。具体的にはないのです。

全能者がコールしている。ワード(神の言葉)が、プロシード(出ている)だけです。神の言葉の働きが、森羅万象に見えるのです。しかも、見えているのは、過去ばかりです。

都会を離れて田舎に行って、よく晴れた夜空を見ますと、満天の星が見えます。五十億光年離れた星を見た時、その輝きは、五十億年かかつて地球に到達したのです。

その輝きは五十億年前の輝きを今見ているのであって、その星が、現在どうなっているか、分からないのです。

極微も極大の世界も、同じ原理です。今見ている万物も、すべて過去を見ているのです。

今から二百年以上も前に、ヨーロッパからカトリックの宣教師が日本にやってきました。漁師をとらえて、ヨハネによる福音書の一章を、日本語に訳したのです。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。言を賢いお方と訳し、神を極楽と訳したのです。初めに賢いお方があった。賢いお方が、極楽共にござると訳したのです。

神の言は、賢いお方です。人間は神の言が肉となったものです。私たちの実体は、何かというと、賢いお方が肉となったのです。人間がいるのではないのです。

イエスはこれを知っていた。イエスはいつも、アイ・アム・イン・ザ・ファーザー(I am in the father)、私は父といると言っていました。つまり、賢いお方が共にござるなのです。私が父と共にいるのではない。父にいるということが私だと言っている。つまり、賢いお方が、極楽共にござるだったのです。

極楽とは何か。インマヌエル(神が共にいる)という事実です。これが人間になっている。その印が現象です。肉となったというのは、現象となったということです。

肉という現象は、極楽の印です。賢いお方が、極楽共にござるという印が、現象です。

時間が流れていると言いますけれど、時間はどこにもありません。ないけれども流れている。時間とは何か。賢いお方が極楽共にござるということが、時間の流れになっているのです。ここまでくると、全能の神と人が、一つになっていることが分かるのです。

ないものをワーと呼んでいる。ワーのようにとは、あったもののように見ているということです。ないものをあったもののように見ているから、現実にはないことになります。現実にはないものだが、極楽共にござるを示さなければいけない。そこで、現象があるのです。しかし現象があることは、肉がないことを示しているのです。

極楽とは、言いようのない完全無欠の状態、何とも言えない理想状態、完壁無類の状態です。

仏典では十万億土の彼方に、仏国浄土があると言います。そこにアミダ如来がいる。無量寿如来(無限の命)と、無量光如来(無限の知恵)が、一つになったのがアミダ如来ですが、これがアブラハムの信仰に現われているのです。これが神の前です。わが前に歩みて全かれ。賢い方極楽共にござるが、神の前です。アー・ノットをワーと呼んでいることが、神の前です。だから現象はないのです。神のコールサインが肉体になっている。人間の思考能力も、生理機能も、神のコールサインです。

神の前とは、この現象世代において、神が己自身を現わしている世代をさしている

のです。

神は自ら発展するために、自分自身の存在を、触媒として用いているのです。悪魔

がいることも、キリストと教会があることも。実は、神自身の触媒作用なのです。

物理現象とは何か。物理現象は科学方式によって見ると、よく分かるのです。科学方式というのは、持続的な考え方です。科学自身の中に、自らを含んでいるのです。

科学の今までの歩みが、そのまま触媒になって、新しい発展をさせていくのです。物質的存在は、本質的に化学的存在であって、化学の真骨頂は、無限に生成発展する原理を内包しているのです。

これが神の原理です。神は永遠に生成発展していくのです。だから神は未完成です。完成されたものではありません。宗教は完成された神を拝んでいますが、これは神を限定していることになるのです。

イエスはこれを知っていた。この身において、神の栄光を現わしたもうと言っています。父の栄光が、だんだん大きくなっていくのです。子において栄光を現わすことにより、父の栄光は、だんだん、無限に大きくなっていくのです。

神はこういうものだと限定すれば、神を侮辱していることになるのです。宗教はすべて、神を侮辱しています。宗教の神はすべて嘘だと喝破すると、人々はあっと驚くのです。

神自身が、アー・ノットをワーと呼んでいることは、子において栄光を現わすためです。これが分からなければ、死から命に変らないのです。

現象とは何か。時間とは何か。これは神のコールサインです。すばらしいコールサインです。この意味が分かると、死から命に転換できるのです。


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