22地球に神の愛が満ちている

植物は花を咲かせ、やがて実を結ぶのに、人間は花を咲かすこともできない。だから死んでしまうのです。愚かなことをしているのです。

花が咲いて実を結ぶ。ここに永遠性が良くでているのです。人間はこれを見ていても、分からないのです。

人間も花を咲かさなかったらだめです。この世に生きていても、魂に花が咲かなかったらだめです。魂に花が咲くと、魂の香りを自分で感じることができるのです。これがプラトニック・ラブです。これは人間が考えるセックスではありません。この恋が分かってくると、神が見えてくるのです。

人間は自分の肉欲のために、恋が分からなくなっています。これは困ったものです。恋は心の花であって、魂の花を意味するのです。人間が生きているということじたいが魂です。魂が神の御心を知って魂の花を咲かせるようになると、この世を去ってからの仕事が分かるのです。

人間はこの世に生きるために生れてきたのではありません。この世に生きていてもしかたがないのです。

最近日本のメーカーが、次世代のコンピューターを開発しているようです。それは左脳にある推理機能、判断、記憶機能と同じような装置を造って、自ら考えるコンピューターを造ろうとしているのです。考えるという機能を色々組み合わせることによって、ある推論が出てくるというのですが、皆様もこれをすればいいのです。

今までの経験内容、記憶内容、そして判断力、推理機能があります。この働きが左脳にありますが、これを活用すると、今まで全然見えていなかったものが、見えてくるのです。

今の人間は左脳の働きが非常に悪くなっているのです。考えようとしないのです。馬鹿になっているのです。その結果、とうとう考えるコンピューターを造ろうとしているのです。人間が考えずに、機械に考えてもらおうという所まできてしまった。こうして、人間は完全に馬鹿になってしまうのです。

こういうコンピューターを発明しようとしている人々は馬鹿にはなりませんが、大衆は馬鹿になってしまうのです。次世代のコンピューターができて、考える機能が完成したとします。それによって人間がどうなるかと言いますと、ますます馬鹿になっていくのです。

人間が現世に生きていることが、無意味なのです。ただ意味があるとすれば、皆様が現世で経験した肉の思いは、肉を解脱して霊の世界に生まれかわるためにあるということです。皆様が何十年の間この世に生きていることによって、色々な経験をインプットされたのです。これを組み合わせていけば、今まで考えられなかった新しい見解が生れてくるにきまっているのです。

今までの経験を踏み台にして、これを組み合わせていけば、未知の世界に対して、今まで考えられなかった新しい見解が生れてくるにきまっているのです。

今までの経験を踏み台にして、それを組み合わせて前進させることによって、肉の次元が霊の次元に変っていくのです。肉の次元が霊の次元に前進していくのです。この方法を祈りというのです。神とのコミュニケーションによって、これができるのです。

聖書が分かるとはどういうことか。全世界六十四億の人間に、責任が持てる分かり方でなければいけないのです。これが意識できないようでは、何も分かっていないのです。

理屈が分かっただけではだめです。本当に聖書が分かったら、自分の生きざまが変ってくるはずです。生活の一挙手一投足が変ってくるでしょう。聖書の言葉を、もっと深く考え、自分の命にすることを考えなければいけないのです。

私たちは全世界の代表者という気持ちで、黙示録の勉強をしていかなければならないのです。今、黙示録の四章が分かる人が、世界にいないのです。

天に開かれた門があります。ここに上がれとあるのです。ここに上がることによってこの世の中の状態、やがて地球が完成するということが見えてくるのです。

今、地球に花が咲いていますが、未完成のままで咲いているのです。未完成のままで咲いている花は、やがて完成する目的のために咲いているのであって、花それ自身はそれを自覚することはできません。

私たちが勉強すれば、私たち自身が完成することが分かると同時に、花を完成させてあげることもできるのです。

花をどのように完成させてあげればいいのか。花が咲いている目的を、果たしてやれるかどうか。聖書を正しく勉強すれば、その方法が分かってくるのです。

私たちは万物の長になるために、聖書の勉強をしているのです。自分自身の利害得失のため、自分が救われるために勉強しているのではないのです。

自分が生きていると思っているからいけない。この思いをやめなければいけないのです。理論的に分かったと思っても、それが自分の生きざまに反映していないようではだめです。例えば、門が開かれていると書いていますが、自分自身が生きていることがらを通して、開かれた門が見えていなかったらだめです。

花を見て、開かれた門があることを、どのように説明するかです。お茶を一杯飲んでも、どのように天が開かれているかです。

私たちが生きていることにおいて、天の門が開かれていなければだめです。天の門の中が、ずっと見えてくること、それが生活の実感の土台にならなければいけない。これが生活の原理です。この原理を軽々しく考えたらいけないのです。

花を見て何を感じるでしょうか。何かを感じるにきまっています。自分が感じていることが何であるかを、正確に説明できなければいけない。開かれた門が生活の実感になっていたら、花を見た瞬間に開かれた門を感じるはずです。

花は人間が見るために咲いています。人間以外に見て感心する者はいないのです。神が花を咲かせているのは、人間に見せるためです。人間に見せて、人間に示しているのです。花を見て、神の御心が分からない人は、その人の霊が神の御心に適っていないからです。

花が咲いているのは、地球の命が現われているのです。それでは、地球の命が花として現われているとはどういう事なのか。開かれた門として考えると、どういうことになるのか。

花を見てきたないと思う人はいないでしょう。きれいだなと思うことは間違っていません。花を見てきれいだと思うことは。何に感心しているのでしょうか。

イエスは次のように言っています。

「『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。

しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」.(マタイによる福音書131417)。

あなたがたの目は見ている、耳は聞いているというのは、弟子たちに言っているのです。あなたがたは見るには見るが決して認めないというのは、ユダヤ人に対して言っているのです。これはイザヤ書六章、九節、十節の引用ですが、ユダヤ人に対するイエスの言い分なのです。

多くの預言者や義人たちが見ようとしたことは、新約という事実です。イエスが生ける神の子として地上に現われること、これは新約時代の実現であって、これを旧約時代の人々は見たいと願っていたが、見ることができなかった。

ところが、あなたがたはそれを見ている。私はキリストだとイエスは言っていますが、それを旧約時代の人たちは見ることができなかった。弟子たちはそれを見ているのです。

ところが、この時代の弟子たちの状態は、まだ聖霊を受けていませんから、イエスがキリストであると、頭で思わされていたのです。イエスが神の子キリストであるらしいと考えて、イエスに従っていたのです。

キリストとは何を意味するかを、弟子たちは知らなかった。しかしイエスは、おまえたちは実物を見ることができる。キリストの言葉を聞くことができる、その目は幸いである、その耳は幸いであると言っている。この時はまだはっきりきていないけれど、やがてくると言っているのです。

花が咲いているという事実があります。それを見て美しいと思います。美しいとは何か。これについてパウロは次のように述べています。

「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書は『すべて彼を信じるものは、失望に終わることがない』と言っている。ユダヤ人とギリシャ人との差別はない。

同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである。

しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。『ああ、麗しいかな、良き訪れを告げる者の足は』と書いてあるとおりである。しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っている。したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。しかしわたしは言う。彼ちには聞こえなかったのであろうか。否」むしろ『その声は全地にひびきわたり、その言葉は世界のはてにまで及んだ』」(ローマ人への手紙10918)。

主の御名を呼び求める者は、すべて救われるとありますが、御名を呼び求めるとはどうするかです。これが、世界中のキリスト教会で、正確に話されたことがないのです。キリスト教会で聖書の勉強をしている人は、御名を呼び求めることを知らないのです。御名を崇めていれば、名を呼び求めることが分かるのです。名を呼び求めるとはどうすることかです。

名とは救い主の実体です。名はギリシャ語でオノマと言います。オノマは物事の実質、実体を意味するのです。英語ではネームと訳しています。オノマの正しい翻訳はないようです。だから名と言わなければしょうがないのです。

昔から日本の諺には、名は体を現わすという言葉がありますが、人間の場合にはそうなっていないのです。例えば、川上正という名前の人がいるとします。その人が正しくない場合があるのです。人間の場合、名前通りの人柄の人間になっていないことが多いのです。

名はその人柄の実体をさすのです。キリストの名を呼び求めるというのはどうすることか。キリストの実体は何かです。実体を知らなければ、それを求めることはできないのです。知ろうと思っても、述べ伝える者がなければ、知ることもできないのです。

述べ伝えるものは誰か。述べ伝えるものの足は麗しいとありますが、足とは歩んでいる状態です。働いている状態です。例えば夕焼けの空を見ていると、荘厳な麗しさを感じます。夕焼け空の荘厳な麗しさとは何かと言いますと、よき喜びを伝えているのです。

喜びの訪れを伝えるものの足は何か。すべて麗しいと思えるものには、喜びの訪れを伝えている。だから、人間の魂は、美しいものを見たいと思うのです。

なぜ夕焼け空を見たいのか、なぜ上がる朝日を見たいのか。なぜ世界各地を観光したいと思うのか。人間の霊魂は無意識に、麗しいものにあこがれるのです。女性が化粧すると、それがよき訪れを伝えるものの足になるのです。顔が美しいことが、良き訪れを伝えるものの足になるのです。麗しいとは何か。山の景色でも、川の流れ、海の色でも、木々の緑でも、皆麗しいのです。麗しいから見たいと思うのです。それが神の訪れを、皆様に知らせているのです。ところがそれが分からない。

花を見てきれいなことはわかります。それがどうしてよき訪れを告げるものになるか分からないのです。

花が美しいという所までは分かります。花の美しさは何か。それを見ることによって、霊魂がどう救われるのか、これが分からないのです。これが分かつている人間でなかったら、天に開かれた門があることが分からないのです。

開かれた門が分かっている人には、花を見ただけで福音だということが、分かるのです。分かった人は、人々に伝えなければならない責任があるのです。

人間のハートで見て美しいと思うのはなぜか。なぜ美しいと感じるのか。人間のハートにないものが、花にあるからです。美しいというのは、英語で言えば、ワンダフルになります。ビューティフルはワンダフルに通じるのです。ワンダフルはすばらしいと訳していますが、ワンダーとは不思議という意味です。ワンダフルとは、不思議がいっぱいある。不思議千万となるのです。

美しいとは思いますが、美しいということの意味が人間には分からないのです。神は人間に美しいという感覚を与えていますが、美しいことの意味が分からないのです。その感覚が何であるかを、人間自身は認識していないのです。

美しいという感覚を御霊が人間に与えているのですが、美しいとは何かを理解していない。哲学でも答えていません。東洋哲学も一切教えていないのです。

仏教では唯識論を三年間勉強します。倶舎論を八年間勉強します。いわゆる唯識三年、倶舎八年です。唯識論は人間の精神の働きを言います。聖書で言えば、福音の神学です。倶舎論は聖書でいえば経論のようなことを言っているのです。唯識論、倶舎論を勉強しても、本当のことは分からないのです。

美しいとは何かが、唯識論の中に書いていません。説明していないのです。

花を見てなぜ美しいと思うのか。美しいとは何であるのか。何に感心しているのか。これが説明できないのです。

おいしいことも説明できないのです。おいしいことは誰でも知っています。知っていますけれど、おいしいことはどういうことかが、分からない。分かると救われるのです。

おいしいというのは、舌だけで感じているのではありません。味覚は脳で感じているのです。舌は脳につながっています。目も脳につながっている。脳細胞に直結しています。

脳細胞の実体は何か。脳波の原理は何かです。脳細胞がなければ脳波は働きません。では脳波は何かと言いますと命です。宇宙には脳波があります。宇宙の脳波の構造と同じものが、縮小されて、一人ひとりの頭の中にインプットされているのです。これは不思議な現象です。

これを聖書は、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造った」と言っています(創世記1・空。神にかたどって人を造った。どのように人を造ったかと言いますと、鼻から命の息を吹き込んだのです。命の息を吹き込んだことによって、人間に脳波ができたのです。鼻から脳波がふきこまれた。鼻から脳波の原理が吹き込まれて、脳細胞が働きはじめたのです。

皆様がおいしいものを味わった時、おいしい料理のにおいがした時に、脳細胞が喜んでいるのです。おいしいことは福音の訪れです。おいしいことと、麗しいことは、本質的に同じものです。

花をじっと見ていると、見とれるような美しさがあることが分かります。花の美しさが、人間のハートにせまってくるのです。これはなぜか。

美しいとはどういうことかと言いますと、愛されている喜びを示しているのです。神の命が地球に宿っている。その命が花になって咲いているのです。これが生きる喜びです。命の喜びです。命の喜びが自然に現われているのです。命の喜びは生かされている喜びであり、愛されている喜びです。これが花になって現われているのです。

花は素朴な感覚で、愛されている事実を現わしているのです。これが今の人間に分からない。特に男に分からないのです。女は愛される喜びを肉体で直感できるのです。

例えば女性が、非常に尊敬する人に巡り会ったりする。その人に触れると、飛び上がるように感じられるのです。惚れている人にちょっと触れただけでも、びりびりと電気を感じるのです。女性は愛されている喜びを、ストレートに、大胆に直感するのです。この喜びを、男性は学ばなければならないのです。女性が喜ぶ状態を、男性が学ぶのです。これが女性を愛することの本当の意味です。

男性は愛される喜びが分からない。女性は愛されているという現実的な喜びを、あふれるように実感できるのです。

神はエデンの園で、アダムを愛して愛していたのに、アダムはそれを少しも感じなかった。見るに麗しく、食べるによい、もろもろの木を植えて、神はアダムをなぐさめた。エデンの園にわざわざ住まわせて、朝日、夕陽を見せたり、すばらしい景色を見せたのに、アダムは少しも感じなかった。けろっとしていたのです。あたりまえだと思っていたのです。

蝉が鳴こうが、鳥が鳴こうが、コオロギが鳴こうが、知らん顔をしていた。何の感激もなかったのです。色々おいしい果物を造って食べさせても、何も感じなかった。

リンゴにリンゴの味がするのはあたりまえ、ナシにナシの味がするのはあたりまえだと思ったのです。

桃には、神の人間の霊魂に対する愛が、そのまま現われているのです。

花は、私は愛されているわよと言っているのです。愛されているとはどういうことかを端的に現わしているのです。素直に愛されているという喜びが、ストレートに出ているのです。

美しいものを見ると、感動します。何が感動しているかと言いますと、人間の霊魂が感動しているのです。霊魂がどう感じているかと言いますと、愛される時の気持ち、愛をストレートに受け止めて、感謝する喜びを感じているのです。

常に喜べ、たえず祈れ、すべての事を感謝せよとパウロが言っていますが、花がそれを実行しているのです。素直に神を喜んでいる状態が、花に現われているのです。これが、良き訪れを告げるものの足になるのです。

神は人間に、夕焼けの景色を見せている。上がる朝日を見せている。雄大な山々の景色を見せている。海の景色を見せている。魚の味、牛肉の味、桃の味、ブドウの味、メロンの味を与えている。これは何かと言いますと、あふれんばかりの神の愛のプロポーズです。愛のシグナルです。プロポーズをしているのです。神が人に求婚しているのです。ところが人間はけろつとしているのです。メロンにメロンの味がするのはあたりまえ、桃に桃の味がするのはあたりまえだと思っているのです。

人間の魂は死んでいます。神の愛が賛美できない命は死んでいるのです。生きている事は、神に愛されていることです。愛しているから生かしているのです。

これがイエスの信仰の基礎です。私は父の内にいるとイエスはいつも言っていましたが、これは神の中にいるということです。

新聞を読んでも、テレビを見ても、神が人間をどのように慰めようとしているのかが分かるのです。スポー・ツをテレビで見ることを許している。これによって、人間の霊魂にどのようなシグナルを与えているのか。文明のあり方を通して、家族を通して、社会生活を通して、神の実体が愛であることを人間に実感させているのです。

ところが人間は何も感じていない。テレビが映るのはあたりまえ、新聞がくるのはあたりまえと、何でもあたりまえにしているのです。

太陽があるのは当たり前、地球があるのは当たり前、森羅万象があるのは当たり前、四季があるのは当たり前、空気があるのは当たり前、水があるのは当たり前と、何でも当たり前にしているのです。当たり前とは何でしょうか。なぜ当たり前なのでしょうか。

神が人間を生かしている原理が当たり前の原理であって、人間があたりまえと思うことは、すべて生かされていることを絶対的な基礎にしているのです。だから、当たり前が平気で言えるのですが、この当たり前ということの内容は、すべて、驚くべき神の愛です。

良き訪れを告げる者の足は麗しい。麗しいということが、神の愛を伝えるのです。喜びの訪れを伝えるのです。

私たちが、今生かされていることが、そのまま救われていることです。そうでなければ、神が生かしている必要がないのです。このことを何とか知って頂きたいのです。

良き訪れを告げるものの足は麗しい。美しいものを見たら、恋をしているのだと思うのです。神が美しいものを通して、人間に恋をしているのです。

霊の眼が開かれて、霊の眼で家族を見る。人間関係を見る。自分の恋愛を見る。自分の過去の経歴を見ると、神の愛ばかりだったことが分かるはずです。

どんな事でも、感謝できるのです。パウロが、すべての事を感謝せよと言っていますが、感謝できないことは一つもありません。暑い時には暑いことが感謝できる。寒い時には寒い事が感謝できるのです。あらゆることが感謝できることばかりです。

喜べること、おいしいこと、すばらしいと思うことが、皆福音だと思ったらいいのです。麗しいと思うこと、おいしいと思うこと、すばらしいと思うことは、皆福音です。これが分かると、人間は毎日生きていて、思い煩ったり、苦労したり、ねたんだり、憎んだりしていることが、いかにばかばかしいかが分かるでしょう。

人間が生かされていることの意味が本当に分かると、思い煩い、取りこし苦労がなくなってしまいます。そういうものに関係がなくなるからです。良き訪れを告げるものの足が麗しいということが本当に分かりますと、今生きていることが、救われていることだと.いうことが、分かるのです。

私たちが見ている世界に、色、形、味、香がありますが、皆、よき訪れを伝えるものばかりです。人間の衣食住は、神の良き訪れを告げるものの足ばかりです。椅子の座りごこち、畳の座りごこち、お風呂の暖かさ、布団の気持ちよさ、これはすべて、麗しい、すばらしいことの中に入るのです。衣食住は神の愛が現われているものばかりです。神の愛でないものは、一つもありません。

美しいというのはキリストの言葉です。美しいことに対する正当な評価をすること、正しい価値判断をすることを、キリストの言葉を聞くというのです。信仰は聞くにより、聞くはキリストの言葉によるとあります。キリストの言葉を聞く時に、初めて、本当の信仰が分かるのです。これがキリスト教では全然分かっていないのです。

最もすばらしいのは、女性の美しさです。女性が愛されている時の喜びは、すばらしいのですが、これが分からない。男性は女性が愛されているすばらしさを見ているのに、それが分からない。女性を喜ばしてなにが嬉しいのか。女性の喜びを学べるから嬉しいのです。ところが学ぼうとしない。女性の喜びを自分の喜びとして感謝感激することが、男性がとるべき態度です。これができる男性がめったにいないのです。

神が人を何のために造ったのか。愛の対象として造ったのです。神から見れば人間は皆女性です。愛されるための女性です。だから男性は女性にならなければいけないのです。男性は男性白身でいては、絶対だめです。アダムは神から愛されているのにそれが分からなかった。そこでアダムはハート(あばら骨)を抜き出して、エバという女性を造ったのです。これはアダムの本質を見せるために、女性を造ったのです。

アダムの本質が女性であるというのは、アダム自身が女性であることを意味している

のです。

男性はその本質のようにならなければいけない。つまり男性は女性にならなければいけないのです。

男性が女性になるとはどういうことかと言いますと、愛される喜びをストレートに感じることです。女性とは何か。愛される喜びを感じることを言うのです。これが分かってくると、初めて、男性は女性になる嬉しさ、楽しさが分かつてくるのです。これがキリストの花嫁です。人はキリストの花嫁になることが、最高の名誉です。

被造物は神の子が現われて、栄光の自由に入ることを待ち望んでいる。花が咲いていることを本当に認めてくれるのを、待っているのです。人間がキリストの花嫁になったら、森羅万象が全部救われるからです。草木国土悉皆成仏というのはそれです。

天地万物は皆キリストの物です。被造物はキリストの栄光を現わすためにできているのに、アダムが罪を犯したために、虚無に服している。これを私たちが認めてあげると、万物が救われるのです。

これができるのは人間だけです。人間だけが、万物を治める権威を与えられている

のです。万物の本当の姿を見ることができるからです。

人間は「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべての獣と、地のすべての這うものを治めるために」生れたのです(同126)。地に這うものとは、呪われた状態を現わしています。野の獣、ヘビ、サソリ、ムカデ、ゲジゲジは、呪われた性格を現わしているのです。

ヒルは悪魔とは違います。人間の霊魂の血を吸うような精神状態を現わしているのです。悪いものが悪いように認められると、ヒルが救われるのです。ゲジゲジもムカデも、皆救われるのです。

私たちが生ける神を知って生きるか生きないかは、大変な影響を与えるのです。万物が生きるか死ぬかの鍵を、人間が握っているからです。


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