2ユダヤ教の間違い

本当のことを知るためには、悔い改めて福音を信じることが必要です。自分自身の気持ちを後悔するのです。

自分が生きているという気持ちが一番悪いのです。人間が生きているのは、神の現れです。従って、自分が生きているのではありません。

神という天然現象、命の自然現象、自ずからという現象が、人間という形で現れているのです。これが自分です。だから自分が生きているのではないのです。

おなかが空く、喉が渇くということは、自ずからの自然現象です。それを人間は、時間が過ぎたからおなかが空いた、動いたから汗が出て、喉が渇いたと考えるのです。

そういうことにも関係がありますが、おなかが空くのは自然現象です。自ずからの現象であって、自ずからが命の本質です。

ところが人間は、自分が生きてきたことについて、生きていることについて、自分が生まれてきて、自分が生きていると考えます。自分が生まれてきたと言っても、生まれたいと思ったことはないはずですから、自分が生まれたという理屈はおかしいのです。理屈があわないのに、自分が生まれてきたと考える。しかも、命は自分のものだと考えている。自分の考えは間違いないと考えているのです。そのように自分を中心にして考えることが、自分が自分に編されている証拠なのです。

自分の自を、みずからと読むか、おのずからと読むかによって、皆様の命の本質が全然違ったものになってしまうのです。

自分が生きていると思っている人は、自をみずからとだけ読んで、おのずからとは読まないのです。

マルクスは、人間は偶然に生まれてきたと言っています。偶然に生まれてきたということになりますと、自分が生まれてきたと言わなければならないのです。

ところが、人間が生まれてきたのは、決して偶然ではないのです。田中さんという人が生まれるためには、田中という家系がなければならないし、家系だけあっても、両親の営みがなければ生まれるはずがないのです。日本という国がなければならないし、空気や水、太陽光線、森羅万象がなければ、生まれてこないのです。

人間が生まれてくるためには、ありとあらゆる無数の条件がなければ、生まれてこないのです。人間が偶然に生まれるというばかなことは、絶対にあり得ないのです。

人が偶然に生まれるというのは、人間存在の本質をばかにした、全く不敵な思想なのです。

偶然に生まれるというのは、人間の命を道端にころがっている石と同じように考えることになるのです。石でも偶然にあるのは一つもありません。人間が見れば偶然にあるように思えるかも知れませんが、石はそこになければならない必然性によって存在しているのです。

どんなことでも、ただ偶然に存在するということは、万に一つもあり得ません。ところが、現代の文明思想は、マルクスの思想のようなばかげた、不徹底な思想に基づいているのです。中国とか朝鮮、キューバが、未だに共産主義を国是にしているのです。

人間が偶然に生まれているという考え方が、現代の日本の教育の根本思想になっているのです。日教組の先生たち、高教組の先生たちが、人間がどうして生まれてきたかということを、まともに考えようとしないのです。

資本主義を信じる人々も、人間が偶然に生まれたとは言っていませんが、人間が生まれてきた原理について、説明しようとはしていないのです。

現代文明は、人間の生活のことしか考えていません。そういう不面目な考えで、人間の命の実体が分かるはずがないのです。

そこで、人間が生まれてきたことの筋道を、まず謙遜な気持ちで考えてみようとしていただきたいのです。そうすると、現代文明の悪さから離脱することができるのです。の目的は、社会人をつくることだけです。社会人は生活する人間を指しているのであって、人間の命について真面目に考えるような人格性を持っていないのです。皆様がもし社会人であることを認めるなら、自分の命を考えることをしない頭にされてしまっていることを認めることになるのです。

これは自分が良いか悪いかという問題ではなくて、学校教育というもの、社会教育というものが、人間をそうしてしまっているのです。ですから本当に自分の気持ちを知ろうと思えば、そういう社会的な流れ、人間的な通念から離脱しなければならないのです。これを悔い改めると言うのです。

悔いるというのは、間違っていることを悔いるのです。改めるとは、出直すことを意味するのです。英語ではレニュード(renewed)という言葉を使っています。心を変えて新にせよと聖書にあります。新にするというのは、レニュードという言葉を使っています。これはやり直す、出直すことを意味するのです。単なるチェンジ(change)ではありません。チェンジは方向を変えることです。左のものを右へ置くのです。

心をチェンジするのではなく、レニュードするのです。やり直すのです。これが悔

い改めです。

ところがキリスト教では、悔い改めを実行していないのです。聖書を信じないで生活していたことが悪かった。親に嘘を言ったことが悪かった。友達との約束を破って悪かった。そういうことが悪かったと思うことを、悔い改めと思っているのです。

聖書で言う悔い改めは、そんな小さなものではないのです。今まで生きてきた命についての見方の原則が間違っていることを改めるのです。これをやり直すのです。

心を変えるとは何でしょうか。心はハート(heart)ではなくて、マインド(mind)になっています。マインドをやり変えるのです。人間のマインドは精神で、これは自ら精神構造を持っているのです。

皆それぞれ、商売人は商売人のように、会社員は会社員のように、精神構造を持っています。精神構造というのは、その人の枠を造っているのです。そういうものがあるために、自分の生活の枠から出られないようになっているのです。

仕事は何でもいいのです。サラリーマンであろうが、商売人であろうが、廃品回収をしようが、心が社会的、世間的な状態から出てしまうことが、神をつかまえるための第一歩なのです。

第二には、できるだけ早く神をつかまえることができるような精神構造を自分で造るのです。今までの精神構造から出てしまうのです。出てしまって何もせずにぽかんとしていると、せっかくきれいに掃除した部屋に、泥靴をはいて入ってくるものがあるとイエスは言っています。その結果、前よりも汚くなってしまうのです。

そこで悔い改めて出直すことを決心したら、早速その座敷をきれいなもので飾らなければなりません。主人公を入れなければならないのです。主人公とはなにかと言いますと、命の実質そのものです。聖書はこれを神の御霊(みたま)と言っています。

御霊というのは聖書独特の言い方ですが、大自然に働いているエネルギーを意味しているのです。

神の御霊というのは、電気現象です。地球にある全ての現象は、皆電気の働きです。味も電気です。形も色も、動きも、皆電気作用です。動物も植物も皆電気によって生きているのです。光も熱も電気です。電気の他に、命の実体は地球上にはありません。

電気が、心理的に皆様の精神構造の中枢に働きかけます。これを御霊を受けると言います。聖霊を受けるとも言います。イエスが汝ら聖霊を受けよと言っているのは、これを実行することです。

本当の悔い改めは、なかなかできることではないのです。悪かったと思っても、その思いが、自分自身の思想の土台にひびが入るような効果がなければならないのです。

そのためには、神に惚れるという気持ちがいるのです。惚れるというのは、顔を見ただけでも、姿を見ただけでも、わくわくどきどきすることです。そういう純真な感覚になってしまうのです。そういう気持ちにならなければ、悔い改めはできないのです。

神は皆様のおやじです。これは聖書をお読みの方は誰でもご存じですが、パウロは「アバ父と呼ぶ子たる霊」と言っています。アバ父というのは、父アバといった方がいいのです。日本語的に言えば、おやじさんとなるのです。アバとはさんという意味です。とうちやんのちゃんみたいなものです。

神はさばけたおやじです。失敗しても素直に謝れば、すぐ許してくれるのです。ユダヤ人は神を見るのが全然間違っています。神をとうちゃんとか、おやじさんとか言わないのです。ですからユダヤ人の思想は偽善的でありすぎていけないのです。形式ばかりでごまかしているのです。これがユダヤ教の間違いです。

分からないことは分からない、分かったことは分かったでいいのです。神にもたれかかるような気持ちで心を開けば、神は必ず受け止めてくれるのです。これが神の特徴です。

神は皆様がどんな気持ちを持っているかを、全部見通しているのです。いくら人間が失敗しても、おかしなことをしても、アバ父が原則的に分かってきますと、すぐに立ち直ることができるのです。


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