3一日は千年のごとし

生きているうちに、いろんなことをしたいと人は言いますが、この考えが間違っているのです。

現在の人間は生きていないのです。これから命を見つけるのです。現在の人間が生活している状態を冷静に判断しますと、生きていないことが分かるはずです。

現在の人間が生きていることが、精神的に死んでいることなのです。現在の自分の状態を正確に悟れば、死んでいることになるのです。自分が生きていることが、死んでいることなのです。命の実質が正確に分かっていないことが、死んでいることを意味しているのです。神から見ると、現在、肉(人間の常識、知識)で生きていることが、死んでいることです。

今の人間は生きていてもしかたないのです。自分が生きていると、何かいいことがあるように思っています。ところが、そうではないのです。生きていても目的もないし、本当の喜びもない。安心もないし、平和もない。生きていて、不平と不満、不安心と愚痴、後悔と執着があるだけです。その他に、何もありません。

人間は自分が生きていることに対して、自惚れを持っているのです。何か価値があると思っているのです。

アメリカの大統領が生きていて、何になるのでしょうか。アメリカにとってはいいことかも知れません。仮に現在の大統領が死んだら、他の人が大統領になるでしょう。

現在の世界で、生きていなければならない人間は、一人もいません。皆、死んでいるからです。

皆様は、現世で喜びを感じることがあります。おいしいものを食べるとか、すばらしい恋愛をするとか、生きていることがすばらしいような気がすることがあります。これは、実は、神を経験しているのであって、自分が生きているのではないのです。

自分が生きているのは、不幸と不満、不安と執着と、後悔、愚痴ばかりです。それ

以外に何もないのです。

死ぬのが怖い。死ぬのがいやだと皆思っていますが、これが間違っているのです。現在、すでに死んでいるのですから、これ以上死ぬことはありません。死を怖がる必要はないのです。

命を見つければいいのです。死ぬのはいやだ、死ぬのが怖いという考え方が間違っている。命を見つけようと思えばいい。命がどこにあるか。本当の命は何かを探求すればいいのです。

人間は正反対のことをしているのです。死なないように、死なないようにと考えている。ちょっと病気になると、すぐ病院に行きます。これがおかしいのです。仮に病院で病気を治してもらっても、結局死んでしまうからです。命を見つけたら、死んでもいいのです。いつ現世を去ってもいいのです。

医者は愚かな人が多く、いつも正反対のことをしているのです。病気を治すのは二の次でいい。命を見つけることを考えればいいのです。死なないように考える必要は、全くないのです。

これを人間の立場から言いますと、肉体的に生きているからこそ、命が見つかるのですから、死んではいけないのです。ところが、命を見つけるという目的がなければ、生きていても全く意味がないのです。

何のために生きているのか。神を見つけるためです。命を見つけるために生きているのです。ところが、命を見つけるためと思わずに、自分の思いを果たすために生きている。これが、死んでいる証拠です。そういう自分は、実はいないのです。

自分がいないということが、なかなか分からない。ところが、人間存在を客観的に見れば、神から見れば、この世に生きている人は、全部イエスです。もしイエスでなければ、どうして神は太陽を照らし、雨を降らし、大自然の恵みを毎日与えているのでしょうか。神に敵する者、神を否定する者だと考えたら、どうして何十年も恵みを与え続けるでしょうか。神から見て、イエスだと思えるからこそ、大自然の恵みを毎日与え続けているのです。

人間が生きていることを、客観的に見るのです。理性があること、良心があること、死にたくないと思っていること、永遠の命を慕っていること、おいしいものを食べれば、おいしいと思う。美しいものを見れば美しいと思う。この状態がそのままイエスです。ところが自分がいると思っている。イエスであるのに、勝手に自分だと思っている。これは大変な考え違いなのです。

自分というのは悪魔です。自分の固有名詞、自分の意識、自我意識は、そのまま悪魔です。人間は悪魔に、完全に騙されているのです。

人間が生きていることは、徹頭徹尾騙されていることばかりです。結婚詐欺にかかったようなものです。結婚詐欺には、女性はとても弱いものです。雑誌に、ある男が何十人もの女性を騙したという記事が載っていました。一人ひとりの女性は、私だけは騙されていないと思ったのですが、やはり騙されていたのです。

うぬに惚れるというのは、人間の特技です。ナルシシズムは、人間の特徴です。自分の顔を鏡に映して、見とれているのは、女性の特技です。ところが自分はいないのです。

人間全体は女性であって、人間は自分だけで生きていてもしかたがないのです。女性は愛されるために生きているのです。愛されなければ、生きていてもしかたがないのです。愛されるという条件がなくなってしまうと、生きていてもしかたがないのです。

人間は自分が神に愛されているということを発見すると、生きている喜びが沸いて

くるのです。

花は愛されているということを、知っているのです。非常に素朴で、ストレートに、神に愛されているという姿を現しています。愛されているという姿を示していますから、花を見るときれいだなと思うのです。

人間は花が咲いているのを現在見ているのですから、咲いている花の世界へ入っていけばいいのです。愛されている自分が、分かればいいのです。花は愛されている自分が分かっているから、美しいのです。

花が咲いているのは、私は愛されているということを示しているのです。意識ができないだけで、そのことが、そのまま花の姿に現れているのです。

池に鯉が泳いでいます。これが愛されている恰好です。動物に迷いはありません。淡々として生きているのです。淡々として生きているというのは、命を楽しんでいるということです。

人間は命を楽しんでいません。自分の欲を楽しんでいるのです。自分のうぬぼれと、自分の欲望を、楽しんでいる。命を楽しんでいません。命を知らないから、楽しみようがないのです。命を楽しむと、生きていることのすばらしさが分かるのです。

命を楽しむというのは、人間の最高の喜びです。生きているということが、インマヌエル(神が共にいること)なのです。インマヌエルという事実を楽しむのです。病気になろうが、死んでいこうが、関係ない。生きていることの実体が分かれば、それでいいのです。

イエスほど完全に生きることはできません。何十年もの間、泥まみれの世界で生きてきましたので、その癖がついているのです。本心は非常に清らかです。

ところが、今まで五十年、六十年の間、生きてきたという癖が染みついているのです。肉体に、肉欲の癖が染みこんでいるのです。

パウロは次のように述べています。

「神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互いにはずかしめて、汚すままに任せられた。彼らは神の真理を変えて虚義とし、創造者の代わりに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである。アーメン。

それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互いにその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである」(ローマ人への手紙124)。

人間は血液の組織体、染色体に、異常をきたしているのです。アダムは、神から絶対に食べてはいけないという善悪を知る木からとって食べて、陥罪した(創世記317)。そして陥罪の後に、欲望的な感覚が、人間の肉体に染みこんでしまったのです。

ノアの洪水の前に、人間の女が、ホモ・ファーベルと言われる自然人(理性を持たない動物的人間)に犯されたために、染色体が変質してしまったのです。血液が変質したのです。これが、乱行の報いを身に受けたことです。

病気は生理的なものではなくて、賢現象です。人間の精神的な欠陥が、生理的に現れているのです。これが病気の原理です。生理的な故障ではなくて、心理的な故障です。だいたい人間は、病気になるはずがありません。命は死ぬはずがないのです。死ぬはずがないのが命です。肉体が老化するのが、おかしいのです。どうして老化するのか、説明ができないのです。

人間存在の実像が分かっていないのです。生きているうちに人間の実像を認識すれば、今までの自分は死んでしまい、それと関係がなくなるのです。関係がなくなる自分が分かるのです。

すばらしいことを経験しているのは、自分とは違います。自分の中にある霊魂です。霊魂が経験しているのに、自分という人間が経験していると思っている。これが間違っているのです。霊魂と人間の区別がつかないのです。人間は、肉体的に生きている人間を、認めよう認めようとする悪い癖があるのです。

自分の地位が安定していることに、勝手に自惚れているのです。ところが、心臓がいつ止まるか分からないのです。これを考えないで、自分の生活の安定性というものだけを考えて、安心しようとしている。ところが内心は、やはり不安でたまらない。この不安から逃れるためには、心臓がいつ止まるか分からないということを考えたらいいのです。

人間はいつ死ぬかも知れないということを頭においていると、嫌でも命に対して正直になるのです。そして命を真剣に求めようという気持ちになるのです。

生きていることが、死んでいることです。現在の状態で安定していることが、間違っているのです。死なない命を見つけたら安定するのです。自分は死なないということが分かるのです。社会的地位があろうがなかろうが、同じことです。あればそれでいいですし、なくてもいいのです。現世で生活を安定するのが、悪いのではありません。不安定よりも安定の方がいいのです。しかし、現世で生活が安定すると、ついその状態で安住してしまうのです。

この世で安心して何になるのでしょうか。不平不満と執着と欲望だけです。それ以外に何もないのです。自分で生きていると、何か良いような気がするのです。騙されているのです。人間は、ただこの世で生きていても、しかたがないのです。従って、現世でどれだ

け生活が安定していても、どれだけ健康であっても、家庭が円満であっても、何もならないのです。

現世に生きている人間は、根本から皆間違っているのです。考えていること、行っていること、今まで生きてきたことが、間違っているのです。今まで生きていたその気持ちで生きていることが、死んでいることなのです。自分は五十歳だから、五十年間生きてきたと思っている。それが間違っているのです。五十年間、死んでいたのです。今までの人間の常識、知識は、どんなものでも、根本的に間違っているのです。

この宇宙に、人間という妙なものが、いるはずがない。それをいると思っているのは、思い違いをさせられているのです。錯覚しているのです。人間は錯覚の牢獄に閉じ込められているのです。結婚する。家庭を持つ。ますます重荷を負うだけです。

こういう言い方は、虚無主義だと言われるかも知れません。現世の道徳、現世の常識を信じている人は、私の思想を虚無主義だと言われるかも知れません。しかし現世を信じている人が、何を目的にして生きているのかと言いたいのです。

人間はこの世を抜け出して、本当の存在を見つけるためにだけ生きているのです。マタイによる福音書に次のように書いています。

こののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。すると、身よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。ペテロはイエスに向かつて言った。『主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために』。彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け』。弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地面に伏せた。

イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、『起きなさい、恐れることはない』。彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった」 (1718)。これは変貌山での出来事であって、これが分かると、聖書が正しく読める人になるのです。この箇所は、常識的には全く分からないところで、まるで御伽噺としか考えられない詣です。モーセとエリアが現れた。何のことか分からないのです。

十六章で、イエスが弟子たちにいろいろな話をした六日の後のことです。六日の後に、千年間の絶対平和のキリスト王国が現れるのです。これはキリスト王国が現れる前兆のことです。

「一日は千年のようであり、千年は一日のようである」(ペテロの第二の手紙38)とペテロが言っていますが、私たちがこの世で経験している一日は、千年の値打ちがあるのです。

そうしますと、一年が三十六万五千年になりますし、五十年間生きていれば、千八百二十五万年生きていることになるのです。人間がこの世で一生生きていると、日の老いたる者になるのです。日の老いたる者とは、神ご自身のことです。老いたるというのは、経験を積んだという意味です。良い経験をつんでいるという意味です。

人間が五十年生きていると、千八百万年も生きていることになります。これは相当なものです。聖書の真理、天地の秘密が分かって当然です。

イエスがこの世に生きていたのは、わずか三十三年です。ところがイエス自身が、私は日の老いたる者と言っています。髭が地面に着くくらいの老人です。イエスが地上にいたのは三十三年間でしたけれど、人間歴史の何百年も生きていたのです。ですから、私はアブラハムよりも先にいたと言っているのです。

一日生きていることが、大変なことをしているのです。水を飲んだり、お茶を飲んだり、ご飯を食べたり、魚を食べたり、電話をかけたり、車を運転したり、仕事や家事をしています。これは一体、何をしているかということです。

私たちは毎日、森羅万象を見たり、触れたり、味わったりしています。これは実は、とこしえの命を経験しているのです。水の味は、永遠の生命の味です。空気の味も、とこしえの命の味です。米、パン、野菜、果物、牛、豚の味も、全てとこしえの命の味です。そういうものの一つひとつがとこしえの命であり、一秒一秒ごとに、ことごとく神を経験しているのです。毎日毎日、どれだけ神を経験しているかです。

たった一年と言いますけれど、三十六万五千年に相当するのです。イエスは、そういう人生経験をしていたのです。

私はイエスに遠く及びませんが、イエスがそういう経験をしていたことが、感じられるのです。このイエスこそ、私の主であり、私の命の実体なのです。私の人生経験のしかたが、いかにお粗末であっても、イエスが主であることが私に実感できるといぅことは、私の命はなくてもいいのです。イエスの経験が、全部私に与えられているのですから、私も目の老いたる者になれるのです。

五十年生きていたから、私は五十歳だと思ってはいけない。情けないことを言ってはいけないのです。一年が三十六万五千年だと思うと、つまらないことに腹が立たないのです。焼き餅を焼いたり、人を憎んだり、怒ったりしなくなるのです。

水の味、空気の味が永遠の命の味であること、蝉の鳴き声が、永遠の音楽を奏でている、花が神に愛されていることが分かると、自分が生きているわけではないことが、はっきり分かるのです。自分が生きていれば、そういうものが分かるはずがないのです。

花に神の愛がありありと出ているのですから、花を見ることによって、自分自身がいかに愛されているかを、自覚すべきです。

花は人間のように自覚できないけれど、こんなに喜んでいる。人間は愛されていることを自覚できる状態におかれている。花の美しさを鑑賞できる地位に置かれている。

この地位はそのままキリストの地位なのです。私たちは、キリストという大変な地位に置かれているのです。

私が花を観賞する。蝉の声を聞くことができる。一年が三十六万五千年であることが、分かる命を与えられている。そうすると、私はけちくさい人間ではありません。

風邪をひいて調子が悪いと言っている人間とは違います。

現在の人間の常識は、全くしみったれたものです。命が全然分かっていません。イエスはたった三十三歳の経験で、祈っているうちに彼の姿が変わってしまった。その顔が太陽のように輝き、その衣が光のように白くなったのです。イエスは生まれる前の栄光の姿に変わっていたのです。そういう生き方をしていたのです。

一日は千年のごとし、これは誰の聖書にでも書いていますが、誰も信じていません。なぜ信じないのでしょうか。聖書は信じるためにあるのに、それを読んでいながら、全然信じていない。一日は千年のようである。そんなバカなことがあるかと考えるのです。人間の常識を信じているからです。

神の言葉をなぜ信じないのでしょうか。神の言葉を信じさえすれば、人間が死なないことがわかるはずです。ですから、五十歳だ、六十歳だというバカな考えを止めてしまうのです。人間の考えは、バカな考えに決まっています。一日は一日にしか思えないのですから、バカな考えになるのです。

本当の人間であれば、一日生きていたら、千年間を生きていたという気持ちが持てて、当たり前です。こういうことが考えられる人は、初めて、永遠の命の有り難みが分かるのです。

生きていて、正直になれば分かるのです。寝たり起きたり、顔を洗ったりという何でもない動作が、大変なことをしているのです。

山を見て、青葉若葉を見ていることが、どういうことなのか。空の青さ、海の青さがどういうものか、春夏秋冬に咲く花の美しさは、どういうものか。永遠の神の命が万物に現れているのです。永遠の神の知恵の力を、万物によって見ているのです。全能の神の力を、目の前で見ているのに、神が分からない。何をしているのかと言いたいのです。目の老いたる者を考えると、自分が生きていると思うことが、アホらしくなるのです。

本当の愛はどういうものか。本当の人間の楽しみはどういうものか。何を喜んでいるのか。私たちがこの世に生きているのは、不思議千万なことです。不思議そのものです。イエスは、これが全て分かっていたのです。私の場合、自分を脱ぎ捨てて、神を信じようと絶えず考えなくてはなりませんが、イエスの場合、これが平気でできたのです。

イエスが、本当の気持ちになりきってしまったことが、変貌山の状態です。顔が目のように輝いた。イエスが人間の状態から抜け出して、自分の本当の姿に帰ったときに、神が産みたまえる一人子としての栄光が、イエスに現れたのです。それをペテロは見たのです。これが皆様の命です。主イエスとはこのことです。イエスが主であるとは、大変なことです。

女性はこれを求めています。男性は女性がそれを求めていることを、よく勉強しなければいけないのです。女性はシンデレラのように、王子様を待っている。女性は何を待っているのか。王子様を待っているのです。女性は結婚したら満足できると思っていますが、結婚しても満足できないのです。

人間がいてもしかたないのです。死んだら、地獄へ行くだけのことです。ただ生きていても、無駄骨を折っているだけなら、無駄だったと思って死んだらそれでしまいです。ところが、死んでから行く地獄がかなわないのです。若い人は、まだ死なないてぽかんとしているけれど年配の人はいつこの世を去るか分からないのです自分がいると思って生きていることが、最も恐ろしいことです。命を空費しているからです。命を空費することは、何よりも恐ろしいのです。

命を空費することは、神ご自身を踏みつけていることです。自分の根性で、神を犯しているのです。自分の命を、自分で犯しているのです。これは本当にバカなことです。

自分が生きていることは、本当に無意味、無価値です。地獄への街道を真っ直ぐに歩いているからです。これを痛切に実感しなければならないのです。これが分からなかったら、いくら聖書の勉強をしてもだめです。本当のことが分かるはずがないからです。

とにかく、一年生きていると、三十六万五千年生きていると神に計算されるのです。神はそういう見方をしているのです。

目をちょっと外へ向けたら、瞬間的に千差万別の森羅万象が、目に飛び込んできます。商店街を歩いていても、何十万種類という色を見ているのです。瞬間、瞬間、光景を見ているのです。

瞬間という時間が分かることは、恐ろしいことです。瞬間とは何か。瞬間が分かるとは、どういうことなのか。

今という時間があるのです。今、今、今。今という時間が積み重なって、何十年という時間になる。今が分かるのは、神と人間だけです。今という言葉が持つ意味は何なのか、今というのは、本当に恐ろしいことです。これが神の前です。生きているということは、神の前に生かされていることなのです。

今という瞬間が分かると、それがどれだけ長い時間なのかが分かるのです。そして、

神に愛されていることが分かるのです。神が人間の霊魂を愛して、ラブ・コールをしているのです。永遠の神、全知全能の神、救い主なる絶対者が、人間を愛しているということは、大変なことです。本当に大変なことです。

自分が生きているから、腹を立てたり、憎んだり、焼き餅を焼いたりするのです。

神の御霊が私たちと共にいます。御霊とは大自然を動かしている宇宙エネルギーです。この方が人と共にいるのです。神の御霊によらなければ、瞬間が分かるはずがないのです。見た瞬間に、何十万種類の色が分かるというのは、全知全能の神の力がそのまま人間に宿っているからです。

こういう命を皆様は持っているのですから、その命を自分のものと思ってはいけないのです。どんな人間でも、こんなすばらしい命を自分のものだと思う人はいないはずです。これが分からない人は、命を自分で汚しているからです。こういう人は、地獄で永遠に呪われることになるのです。

恐れおののいて、おのが救いを全うせよとパウロは言っています。生かされているということは、実際、恐れおののかなければいけないことです。この命を無駄に生きてはいけないのです。


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送