4魂は神の小羊

イエスと普通の人間の違いがどこにあるかと言いますと、イエスは絶対を絶対とすることを知っていたのです。ただそれだけのことです。

ところが普通の人間は、絶対を知らないのです。相対の世界にしか住んでいないのです。これはバカみたいなことです。

私たちが生きていることが絶対です。これが分からないのです。女性はまだ絶対を知りやすいのです。何となく絶対を感じなければならないような心境にあるのです。これは男性から取られたからです。

男性は、女性が男性から取られたことを、全然知らないのです。男性は神から取られたのです。男性は神から取られたのに、神から取られたという自覚がないのです。神が目に見えないからです。

女性の場合、男性が目に見えているのです。ですから男性から取られたという実感を持ちやすいのですが、男性の場合、神から取られたという実感がしないのです。神は実際には見えていますが、見る目を持たないので、見えないだけです。そこで勝手に死んでしまうのです。考えてみれば、バカみたいなことです。

男性は女性を、もっともっと勉強しなければいけないのです。男性は女性を軽蔑しているので、女性の真髄を全く知らないのです。男性は女性の悪さだけしか知らないのです。

なるほど、知恵とか力という現世的な実務は、男性は女性より優れています。ですから男性は、つい女性を軽く見てしまうのです。勉強しようとしないで、軽く見てしまうのです。これがいけないのです。

女性は愛さなければ、値打ちが分かりません。愛すると値打ちが分かるのです。男性は女性を愛しているのではなくて、奴隷祝しているのです。自分の欲望の対象として、女性を見ているのです。男性は全く罰当たりです。

女性は勉強するためにあるのであって、欲望の対象とは違うのです。家庭がなっていない原因が、ここにあるのです。自分の家庭を自分の敵にしているのです。

男性は家庭を持っているから、呪われるのです。これは日本人だけではなく、人間全体が根本的に間違っているのです。アダムとエバの関係が全然分かっていないのです。イエスはこれをよく知っていました。ですから女性の扱いが全然違っていたのです。ですから女性の扱いが、聖書的に正しくならなければだめです。これをしようという勇気を持つのです。

男性は、非常に神が分かりにくいのです。女性は男性が邪魔になって、神を見ることができないのです。ストレートに神を見ることができないのです。女性は愛が分かってくると、男性を通して神を見ることができるようになるのですが、女性は本当の愛がなかなか分かりません。女性は自分が愛であることが、分からないのです。自分自身の存在が、愛の存在であることが分からないのです。

男性は女性を見て、愛を知るべきです。女性は自分自身の本性を見れば分かるのに、それが分からないのです。その原因は原罪です。悪いのは悪魔ですけれど、悪魔が悪いという言い方では神の前に通用しないのです。現象世界を突破して、神の国に入るためには、どうしてもこの難関を突破しなければいけないのです。

男性が真面目に働こうと思えるのは、女性がいるからです。女性がいなければ、あほらしくて仕事をする気にはならないのです。奥さんが死んだら、すぐに分かります。

奥さんの存在は非常に大きいのですが、それが男性に分からないのです。自分が仕事をしていると思っているからです。これが悪魔の自惚れです。

神に生きるにはどうしたらいいのでしょうか。人間の悪を十分に理解しなければ、神を生きることはできません。神を生きずに自分が生きているからいけないのです。

男性でも女性でも、自分が生きていたのでは救われません。救われるという言い方は、宗教的な言い方になりますけれど、救われるというのは人間本来の生き方を悟ることです。悟って喜びに入ることを救われると言うのです。

聖書を綿密に、冷静に読むことによって、人間存在の基本原理が分かるのです。しかし、基本原理が分かっただけでは、救われません。それは方向が示されただけです。方向が見えても、救われないのです。

救われるということは、具体的に自分が聖書の言葉を実行することです。そうすると命の味が分かってくるのです。

聖書に次のように書いています。

「見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。御座からは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが発していた」(ヨハネの黙示録425)。神のスローンから、第一にいなずま、第二にもろもろの声、第三に雷鳴が出ています。これが現実です。これだけしかないのです。

第四の次元に、肉の思いに基づく形態があります。第四の次元が割り込んできたから、現象世界ができたのです。第四の次元が割り込んでこなければ、現象の世界は成立しないのです。これを考えなければいけないのです。

皆様の肉の思いは、第四の世界にだけしか住んでいません。いなずまの世界、もろもろの声の世界、雷鳴の世界のことを知らないのです。第四の形態の世界だけしか知らないのです。これを現象世界というのですが、これしか知らないのは、地獄へ行くに決まっていることになるのです。

神が一番嫌いなのは、現象です。闇か淵のおもてにあった。現象が淵です。人間は淵ばかり見ているのです。この世とか、地球、肉体的な自分は、皆淵です。

大自然に展開するエネルギーと一つになることを、御霊を受けると言います。御霊を受けていたら、それをまっすぐに崇めると、預言の霊を受けることができるのです。

人間は現象しか見ることができません。物事の表面だけを見て、損をした、得をしたということばかりを言っているのです。神を誉めることをしないのです。御霊を受ける苦労を考えれば、御霊を崇めることは十分にできるのです。

神を喜ぶことができないから、聖書の言葉によって心が輝かないのです。命の言葉を保って、光のように輝けとパウロが言っていますが、これが実現できないのです。

人間は自分で生きているのではなく、神に導かれているのです。この神に目を付ければいいのです。

宇宙の中心に御座があって、そこから出ているのは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴です。四つ目の現象も御座から出ていると思われますが、そうではありません。御座から現象は出てこないのです。

湯川秀樹さんは中性子を発見しました。原子核の中に中性子があることを発見し、それでノーベル賞を受賞したのです。

中性子は恒常的にあるのではなく、現れたり消えたりを、恐ろしい速さで繰り返しているのです。これをいなずまと言います。神の御座から、そういうものが出ているのです。

中性子をあやつっているのは、神の御座です。中性子が現れたり、消えたりしているのです。原子自体がそういう状態になっています。物質があるかと言うと、ないのです。それを湯川さんは学校で教えていたのです。

物質があるのではありません。ただ原子の運動があるのです。運動とは何かと言うと、分からないのです。これが御座から出ているいなずまです。

中性子の運動がなければ、原子は消えるのです。原子がなければ、電子もないのです。あるのは運動だけです。湯川さんは学校で、物理運動はあるが物質は存在しないと学生に教えていますが、家に帰ると物質があるように思えたのです。奥さんがあり、家があるように思えたのです。学者として恥ずかしいと思ったのです。ありもしない現象意識を信じていたからです。

御座から出ているのはいなずまです。湯川さんはこれを発見しただけです。彼は物質はない、物理運動があるだけだということを、理論的には知っていながら、感覚的には現象世界を信じていたのです。

そこで、自分の意識から現象感覚を切り落とすのです。そうすると、御座だけになるのです。これを霊の思いと言うのです。霊の思いは命であり平安であるとパウロは言っています。

同時に、肉の思いは死であると言っています。肉的に生きているという事実はありません。

生きているという事実(living)はあります。生きているということが、霊です。神です。リビングが霊です。肉には関係がありません。これがぴたっと額に印せられると、リビングのシール、生ける神の印になるのです。生ける神の印を、瞬間、瞬間持ち続けるのです。今分かっても、次の瞬間に分からなくなっているからです。

物質があると思うのは瞬間的です。信仰も瞬間のものです。これがいなずまです。自分の思いを絶えず蹴飛ばせばいいのです。そうするといなずまだけが残るのです。霊だけが残るのです。

イエスは明日のことを思い煩うなと言っています。肉を蹴飛ばせば、勝手に霊が残っていくのです。御霊を崇めるというのは、肉を蹴飛ばすことです。肉的な自分の気持ちを、瞬間、瞬間、蹴飛ばし続けるのです。誤解されたと思ったら、その思いを蹴飛ばすのです。そうすると、誤解が消えてしまうのです。損したと思ったら、その思いを蹴飛ばすのです。そうすると損が消えて、得だけが残るのです。

良いことも悪いことも、自分がしたと思ったらもう間違っています。エホバがかく言いたもうでいいのです。子は自ら何もしません。子は父のなしたもうことを見てすると、イエスは言っています。子の中には、私たちも皆含まれているのです。

イエスがしたことは、そのまま私たちにもできるのです。できないはずは絶対にありません。私たちは小文字の子です。イエスは大文字の子です。イエスは初穂の神の子であったから、大文字になっているのです。私たちは初穂ではありませんから、小文字になっているのです。しかし、本質的には同じです。

神に生きているのです。現象世界はないのです。いつもこう思ったらいいのです。エホバかく言うと言ったらいいのです。自分はいないのですから、楽なものです。人の顔色を見る必要はありません。自分の力量を考える必要もないのです。ただエホバかく言うでいいのです。イザヤやエゼキエルのように、言ったらいいのです。

主にありて生きるのです。自分に生きないのです。いなずまともろもろの声と、雷鳴しかないのです。

現象は悪魔が持ち込んだ肉の思いです。肉の思いが、皆様に、現象があると思わせているのです。皆様の頭が、それに同意しているのです。これが悪いのです。

魂が肉の思いから離れるのです。自分という人間と、自分の霊魂が分離するのです。二重人格のままで生きないで、別れるのです。一重人格になるのです。自分を放っておくのです。

生きるということだけがあればいいのです。これが霊魂です。霊魂だけで生活するのです。こういう習慣をつけるのです。

羊を飼うように魂を飼うのです。イエスが「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネによる福音書2116)と言っているのは、このことなのです。魂が小羊です。これを養うのです。御座の前にあるのは、目に見えないもの、霊的なものしかありません。生きているのは御座の前だけです。そこにあるのは、いなずまともろもろの声と、雷鳴です。

一輪の花にも、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴があります。これしかないのです。これが分かるまで、じつと花を見たらいいのです。

第四の現象はありませんが、肉の思いで見ると、現象しかないのです。霊によって見ると、現象は見えなくて、いなずまと諸々の声、雷鳴しか見えないのです。

現実は神の御座ですが、そこには現象はないのです。悪魔による肉の思いを信じているから、現象があると思うのです。現象があると思えるのは、肉の思いの錯覚です。現象を一切問題にしないように、自己訓練をするのです。これが自分の中にいるキリストの小羊を飼うことになるのです。

ところが、小羊である霊魂を飼おうとしないので、死んでしまうことになるのです。死ぬだけならいいのですが、地獄へ行かなければならないことになるのです。神は皆様をこの世に出して、聖書を勉強させたり、御霊を与えたりしました。小羊を飼うことを教えてくれました。後は全部自分の責任です。自分の中にいる魂はキリストの小羊ですから、これを養うのです。自分の魂だと思ったらだめです。キリストの小羊を預かっていると思うのです。これを養うのが自分の役目です。


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