5ユダヤ人の思考方式は闇からきている

人間は、どの魚はどのように料理をしたらおいしいかが分かるのです。どの魚は、いつ頃食べたらおいしいかということも分かるのです。

金はどう扱えばいいか、銅はどう扱えばいいか、鉄はどう扱えばいいか、水はどう扱えばいいか、風がある時はどうすればいいかを知っているのです。

なぜ知っているのでしょうか。魚も、野菜も果物も、金、銅、鉄も、風も太陽、海も、全て人の中にあるのです。自分の中に万物がなければ、外にある物が分かるはずがないのです。

人間は自分の中にあるものを、外に見ているのです。この原理が分からないのです。大自然の美しさの粋が、女性になっています。それが人間に分かるのです。なぜその美しさが分かるかと言うと、それが見る人の中にあるからです。

法蔵比丘という坊さんが、自分の中に万物があることが分かりました。万物全体を済度しなければ、成仏できないことが分かったのです。これを大無量寿経の中で、四十八願として書いていますが、これが仏教で分からないのです。

第十八願は最もすばらしい願です。天地宇宙の中で、たとえ雛一匹でも悟りを開かなかったら、私自身が成仏できないと言っています。これはすばらしい悟りです。ありとわかるのです。

人間は自分が一人で生きていると考えています。自分の命があると考えています。これが地獄へ行っている印です。

自分が生きていると考えている人は、自分が地獄へ行っている証拠です。法蔵比丘は万物の命が自分の命だと考えました。それで阿弥陀さんになったのです。法蔵菩薩は阿弥陀さんの前提です。

証信偈に帰命無量寿如来南無不可思議光、在世自在王仏性、法蔵菩薩因位時とあります。比丘とは坊さんのことですから、法蔵比丘因位時とも言います。法蔵菩薩が悟った時の気持ちを、捉えなさいと言っているのです。これが証信偈の有名な言葉です。これを読んでいる坊さんがその意味が分かっていないのです。

世界中で認められている宗教の中には、どこかに真理があるのです。それが聖書の真理に一致しているに決まっています。一致していなければ、宗教にならないのです。

どんな宗教でも、その中心は皆聖書から出ているのです。聖書が分かれば、他の宗教は皆分かります。そのようにできているのです。

在世自在王仏性というのは、この世に自らいる時には、その人は王の位にいる。それが仏の悟りだというのです。これが法蔵比丘の悟りです。普通のお坊さんが阿弥陀如来になったのです。なぜなったかと言いますと、天地万物を救う責任があると考えたからです。お釈迦さんからお前は人間ではない。仏になれと言われたのです。アブラムがアブラハムになったようなものです。

仏教は歴史的な背景は一つもありませんから真実ではないけれど、哲理的には本当のことを言っているのです。歴史的な裏付けがありませんから、ただの概念ですが、真理としての概念であって、救われはしませんけれど、聖書を読むためのすばらしい参考になるのです。

仏典の勉強をしないと聖書は分かりません。天理教でもお稲荷さんでも、皆参考になるところがあるのです。どんな宗教でも、どんな思想でも、参考にしたらいいのです。こういう考え方ができると悪魔の驚異です。

固有名詞の自分がいると思ったらだめです。いると思ったら、必ず地獄へ行くのです。法蔵比丘が阿弥陀如来になったように、もともと法蔵比丘であったけれど′、四十八の願をたてたことによって、阿弥陀如来になることを許されました。阿弥陀如来は初めからいる如来ではありません。人間が本当の悟りを開いて阿弥陀如来になったのです。

一向宗の人々は般若心経は分かりません。阿弥陀経の説明をしないといけないのです。阿弥陀如来とイエス・キリストの関係を言わなければなりません。他力でも自力でも同じです。天理教でも同じです。

阿とは無ということです。弥陀とは限りです。限界のことを弥陀と言います。阿弥陀とは限りがない、阿弥陀如来とは、無限、無窮の命を持ったものという意味です。これが帰命無量寿如来です。

人間が生きていると思ったらだめです。法蔵比丘は天地万物に対して責任があると考えました。たとえ犬一匹でも悟りを開かない状態であったら、自分自身は成仏できないと考えたのです。そこで、お前は仏になっていると言われたのです。

皆様の中に、犬ころがいるのです。ダニもノミもいるのです。ダニをどうしたらいいか、ノミをどうしたらいいかが分かるのです。

神は人間を造ったのではありません。万物を造って、それを治めるために、人間というピリオドを打ったのです。人間は神の創造のピリオドです。ピリオドが人間といぅ恰好でいるのです。ピリオドの中に、今までの創造が全部入っているのです。そう言う仕掛けになっているのです。これが大無量寿経の原理です。

阿弥陀経と大無量寿経、観無量寿経が三部経といわれているものです。観無量寿経には極楽世界のことを事細かに書いています。御伽噺のことをあまりに細かく書いていますので、今では説明する坊さんがいないのです。あんまり有難すぎて何のことかところが、神が分かり、永遠の命が分かると、観無量寿経の内容が自分の中に現れてくるのです。自分の中に天国が現れてくるのです。自分の中に極楽があるから、常に喜べ、たえず祈れ、全てのことを感謝せよということが実行できるのです。

人間はただの人間であるはずがないのです。天地の主と同じものなのです。自分はただの人間だと考えているのは、誤解も甚だしいのです。ですから地獄へ行くことになるのです。

人間は鳥を見ても、牛や馬を見ても、昆虫を見ても、それが何かが分かるのです。それが自分の中にあるから分かるのです。自分の中になかったら、分かるはずがないのです。人間は自分の中にあるものを、外に見ているのです。

これはアダムがエバを見た時に、はっきり現れています。アダムがエバを見た瞬間に、驚いて、これは自分だと思ったのです。「これこそ、ついにわたしの骨の骨」と言ったのです。これこそ私自身だと言ったのです。驚いたのです。

自分の中にあるものが外に出ているのです。全てがそうなっているのです。男と女の関係も皆そうです。天地万物がそうなっているのです。その感覚をキリスト意識と言うのです。

人間が生きていると言うことは、そのままキリストが生きていることです。私たちが生きている本当の姿を、キリストは見せてくれたのです。キリストは阿弥陀如来でわからないのです。す。南無イエス・キリストと言ってもいいのです。イエス如来と言ってもいいですし、キリスト如来と言ってもいいのです。

普通の人間がキリストになりました。死人のうちから建ったことによって、キリストになったと聖書に書いていますが、法蔵比丘という普通の坊さんが阿弥陀如来になったと同じことです。皆様は阿弥陀如来になるかキリストになるか、そこまでいかなければいけないのです。自分が自分であったのではだめです。

ここで考えなければならないことは、キリストが十字架につけられたということです。イエスの実質は神の言です。万物も神の言で造られています。イエス・キリストが十字架につけられたことによって、全ての万物、全ての人間が否定されました。そしてキリストが復活した時に、全部新しい命に建ったという、驚くべきことが起きたのです。

そうすると、今人間が見ているのは何でしょうか。人間が見て物があると思っています。これはキリストが十字架にかかるまでの世界を見ているのです。旧約聖書の万物を見ているのです。

イエス・キリストの復活によって、万物は霊の万物になっています。霊の木、霊の花になっているのです。全部霊になっているのです。これはどういうことかと言いますと、形が消えて、実質のみになったということです。バラの花で言えば、形がなくなって、バラの本性そのもののみになったということです。

バラの花が現象的に現れるというのは、バラ自身の本意ではありません。不本意、不自然なのです。これについてパウロは次のように述べています。

「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現れようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身らも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている」(ローマ人への手紙81822)。

バラが形をとって現象的に現れているのは、滅びのなわめに縛られたことです。被造物がそうだったのは、被造物全体の支配を任せられていた天使長ルシフアーが、現象的に被造物が現れなければならないと、強く主張したからです。

それらに対して神はやむなく同意して、現象世界を造ったのですが、これはもちろん神の本意ではないし、被造物の本意でもないのです。

被造物が現象的に現れたら、必ず醜態をさらさなければいけないのです。枯れる、老化する、散る、死ぬという姿は、被造物にとつては耐え難い苦しみになるのです。被造物がそういう状態に置かれたのは、天使長ルシフアーの反逆によるのです。

ところが、イエス・キリストの十字架、復活によって、人間も、万物も否定されて、変わってしまったのです。新天新地が来てしまったのです。十字架と復活によって新天新地が来ているのです。人間も、森羅万象も、地球も、朽ちない永遠のものに変化しているのです。ですから南無イエス・キリスト如来はあたりまえです。

阿弥陀如来は概念です。キリストという人格を概念的な人格、理想人格として現したもので、実在の仏ではありません。神でもないのです。従って、阿弥陀如来は概念としては存在しますが、実在した人格ではありません。信じてもだめです。

阿弥陀如来の実物は、イエス・キリストの復活です。イエスが十字架上で血を流したのは、生き物の命を否定したものです。生き物の命を否定すると、死んでしまうのです。イエスは全ての生き物が肉(現象)の状態で生きていることを否定したのです。これが血を流したことです。

イエスは肉体的に生きていました。これは何かと言うと水だったのです。ペテロは「地は水がもとになり水によって成っている」(ペテロの第二の手紙35)と言っています。イエスの肉体は水でした。ヨハネがイエス・キリストが水と血を通ってこられたと言っているのは、この事実を指しているのです(ヨハネの第一の手紙56)。

水と血が本体です。肉体はなかったのです。皆様も肉体があるのではありません。水と血があるだけです。

味は皆霊です。味があるのではありません。般若心経で言う空があるのです。神を信じるというのは、空を信じることです。仏教の言い分をそのまま聖書に当てはめて説明しても、少しもおかしくないのです。

仏教はキリスト教の神学をそのまま焼き直しているのです。竜樹菩薩がそれをしたようです。イエスの孫弟子の誰かがインドに伝道して、竜樹がそれを聞いて仏教の焼き直しをしたらしいのです。

大乗仏教はキリスト教の焼き直しです。聖書に似た深さがあるので満足できるのです。ユダヤ人がいない聖書が仏教です。

自分の中に万物がある。万物があるという恰好が人間として現れているのです。これが分かれば、自分に対する執念がなくなるでしょう。

人間は万物のあり方を、大から小に至るまで知っています。教えられなくても知っています。それは生まれる前に、人間の霊魂に入っていたからです。

生まれてきて、肉体的な人間になっていますけれど、肉体的に現れているという業を乗り越えてしまうのです。肉体的に現れている自分は、本当の自分ではありません。

人間の肉体は、万物の集積を意味しているのです。馬は馬だけの肉体ですけれど、人間は万物の全ての要素、例えば金、銀、鉄、ダイヤモンドと、全てのものが入っているのです。鉱物、植物、動物、昆虫、微生物と、あらゆる要素が人間の中に入っています。これが土のちりです。

ちりはあらゆる要素を全部含んだ、上等のものです。ですから人間の肉体は食べられないのです。食べてはいけないのです。ちりだから食べられないのです。ちりはあるように見えていますが、ないと変わらないという意味です。万物の物質的な存在が全部要約されているのです。これが肉体になっているのです。人間の肉体があるかと言うとないのです。万物の要素があるだけです。これが地球のちりです。

闇が淵のおもてにあった。闇は自ら進んで淵のおもてを住み処にした。神から離れて、自分の所在を定めてしまった。ですから、神の性質から見放されて、自分の思いの中に閉じ込められることになったのです。

神から離れた自分の思いは、全て幻覚です。肉の思いは正真正銘の幻覚です。人間はその幻覚を実感しているのです。自分の錯覚を自分の実体にしてしまうことが、幻覚になるのです。その幻覚に基づいて生きていて、魂がそれに束縛されているのです。

自分という人格が、その錯覚に同意する形で束縛されているのですから、自縄自縛の形になっているのです。

ユダヤ人は人間の立場に立っています。幻覚は、自分がいるという気持ちから、必然的に発生するのです。自分がいると思うことが幻覚の土台であり、またその目的でもあるのです。

神から離れてしまうと、人間は幻覚の世界に入ってしまうのです。神の思想を信仰と言いますが、神の思想から離れてしまうと、とたんにややこしくなるのです。そうすると物質があるように見えるのです。

イエスは水と霊とによって新しく生まれて神の国に入れと言っています。水によって新しく生まれるとは洗礼を受けることです。父と子と聖霊の名によって洗礼を受けると、肉体が消えて、地球ができる前の状態に戻るのです。

霊によって生まれるとは、御霊を受ける、または聖霊を受けることです。大自然に遍満するエネルギーが御霊の働きですが、このエネルギーが知的に働いて、聖書の言葉の本質を教えてくれるのが聖霊です。大自然のエネルギーと一つになることを御霊を受けると言い、聖書の言葉が自分の命になることを、聖霊を受けると言います。

御霊を受けても、聖霊を受けても、なお物質があるように思えます。御霊を崇めようとしないからです。御霊を受けても崇めようとしないものは、なお肉(人間社会)に生きています。これを破るにはどうするかです。これができるかできないかで、死ぬか生きるかが決まるのです。

御霊を受けていながら崇めることができないのはなぜでしょうか。御霊を受けたのなら、御霊によって考えるという訓練をすればいいのです。訓練をするにはどうするか。御篭を受けたというのは神の約束の認印を押してもらったのですから、自分は神の子であると確信して、今まで生きてきた自分の気持ちを信じないようにすればいいのです。

御霊を受けても、今までの自分の気持ちはあります。なぜあるかと言うと、聖霊を受けてからもなお肉の思いがあることが、人間の救いになるからです。ここが難しいのです。

聖霊を受けたという事実があっても、自分の気持ちを自分で信じていたら、いつまでも神の国に入っていけないのです。

そこでどうするかと言いますと、聖霊を受けた以上、自分は聖霊を受けたと確信して、今までの自分の思いをなるべく信じない工夫をするのです。自分の思いをできるだけ捨てるように工夫するのです。これを信奉の工夫と言います。信奉とは心の持ち方です。心の使い方です。物の思い方を自分で工夫するのです。工夫することを御霊を崇めると言うのです。

自分の心を崇めないことです。自分の心を信じないのです。自分の思いがあっても、それを信じなければ消えてしまうのです。

自分の思いが山ほどあっても、それを信じなければ思いは死んでしまうのです。自分の思いを自分で殺すのです。思いがあってもかまわないのです。その思いを殺す工夫をするのです。

万物があるように思えるのは、今までの習慣で思えるのですが、それを信じるか信じないかです。それを信じなければ、その人の霊魂には万物はないことになるのです。

信じるか信じないかによって、その人の霊魂の状態が変わってくるのです。それを神

が見ているのです。

どこまで信奉の工夫をするか、自分の思いの状態をどのように訓練するか。それによってその人は、神からいよいよ恵みを与えられることにもなるし、これはだめだとして、恵みのグループから外されてしまう魂もあり得るのです。救われるか救われないかは、聖霊を受けた後の自分自身の信奉の工夫によるのです。

私たちは自主人格を与えられています。自分で工夫をしなければ、いくら聖霊を受けてもだめです。受けた聖霊を、自分の中で一人前に育てるか育てないかは、その人の心構えによるのです。一人前になるかならないか難しいのですけれど、そうしなければ一人前にはなれないのです。

受けた御霊を崇めるということは、逆に言いますと、自分の気持ちを捨てることです。今までの肉の思いは、あるに決まっていますけれども、それを信じない。とにかく、肉の思いをどんどん捨てるのです。

妬み根性、疑い、迷い、憎みの気持ちがあるに決まっています。その中で、御霊を受けているのですから、そういう気持ちがあるに決まっていますけれど、それを問題にしなければいいのです。

イエスの荒野の試み所を読んでみますと、イエスがどれほど自分の気持ちと闘っていたかが分かるのです(マタイによる福音書4111)。イエスでも試みられたのです。試みられましたけれど、自分の気持ちをどんどん捨てて、悪魔の言い分の上にたったのです。悪魔はとうとう勝てなかったのです。

肉の思いはいくらでもあります。肉の塊の中で、御霊を受けているようなものです。御霊を受けたら肉の思いはなくなるというわけではありません。受けた御霊を崇め、自分の思いを信じなければいいのです。自分の気持ちを信じない。これを訓練するのです。

御霊を受けただけではだめです。信奉の工夫をしなければいけないのです。パウロは自分の肉とボクシングをしていると言っています。パウロでも、自分の肉と闘っていたのです。まして私たちは、それ以上に肉と闘わなければいけないのです。

神は人間に聖霊を与えました。神の方はそれで済んでいますが、聖霊を与えられた人間の方は済んでいないのです。与えられた聖霊によって自分の肉を叩くのです。

神は闇が淵のおもてに座り込んでいるので、肉みたいなもの(現象世界)を造ったように見えるのです。ところが神は肉を全然造っていないのです。淵のおもてに座り込んでいる方から見ると、自分の思いどうりに神は肉(現象世界)を造ってくれたなと思っているのです。悪魔から見ると物質はあるのです。悪魔はそれで悦にいっているのです。自分はこれで満足だと思っています。満足しているからこの世の王になって威張っているのです。

ユダヤ人がそれをしています。肉の思いで地球を見る。肉の思いで聖書を見る。これしかできないのです。ユダヤ人は、まんまと神に騙されているのです。

なぜそうなったかと言いますと、ユダヤ人は神が物を造ったと思っているのです。ユダヤ人は「我々が信じている神は万物の造り主だ。異邦人は地球を造った神はどこにいるか分からないだろう」と言っているのです。ですからユダヤ人の言うことは、正しいと思っているのです。

神は地球を造った。万物を造った。ユダヤ人は万物があると思っているのです。ところが、地球も万物もないのです。般若心経で言う色即是空です。五経皆空です。悪魔もユダヤ人もまんまと神に騙されたのです。

結局、自分の気持ちをどのように使うかで、永遠の命を捉まえることができるかどうかが決まるのです。御霊を受けていながら永遠の生命を与えられないことになるかも知れない。それは生きている間の気持ち次第です。信奉の工夫だけです。

信奉の工夫は禅宗の言葉です。悟るためにはどのように心を遣ったらいいか、ただぽかんとしていただけではなかなか悟れないのです。仕事をする時、家事をする時に、自分の心を自分で練るのです。これを禅堂ではやかましく言います。

私たちも、日常生活において、信奉の工夫を絶えずしていなければ、神の国に入ることはできないのです。神の国が今日分かったと思っても、分かっただけではいけないのです。分かった、分かった、実行しますと言っているのが、人間の肉の本音です。これはだめです。実行しますと言っても、実際に実行しなければ、だめです。言葉だけではだめです。ここが厳しいのです。本当に神の国に行きたかったら、実行しなければいけないのです。

女性は実行しやすいのです。女性の方が素質がいいからです。男と女とを比べたら、骨の骨である女の方がいいに決まっています。男はただの骨です。ただの骨と、骨の骨とは違います。

しかし男は悲観しなくてもいいのです。男は女を食べてしまわなければいけない。なかなか食べにくい女もあります。女は食べてもらおうという気持ちになればいいのです。ところがなかなかそういう気持ちになりにくい。

女の信奉の工夫と、男の信奉の工夫とは違います。女の信奉の工夫というのは、自分が置かれている事情境遇の中に解けてしまうことです。自分の家庭の中に解けてしまうこと、家庭がない人は、与えられている事情境遇の中に解けてしまうことです。男はその女の態度に習って、神の中に解けてしまわなければならないのです。ここが違うのです。

男の責任と女の責任とは違います。神が男に女を与えたのは、男を一人前にするためです。これが神の目的です。女は与えられた自分の条件の中へ解けてしまうこと、それに対して一切疑いを持ったり、迷ったりしないことです。それが骨の骨のいいところです。これが男の模範になるのです。

生きていることは神である。これが男性の光になるのです。男の光になるために女はいるのです。男の厄介になっていたらだめです。光になるために女はいるのです。女はこれができて当たり前です。

男はこの世のちりあくたを全部背負っていかなければならないのですが、女は自分の境遇の中で生きようと思ったら生きられるのです。女は自分が生きていなければならない必要がないのです。自分の意見を立てなくてもいいのです。ただ家庭の中に解け込んでいればいいのです。これが女の服従で、骨の骨です。

男が女を勉強しますと、男がこの世で生きていく必要がなくなるということが分かるのです。それならどこに生きるのか。神の国に入ってしまえばいいのです。これが男の責任です。神はそういう段取りで人間を造っているのです。

物があるように見えるのはなぜでしょうか。人間がこの世に生きていれば、物があるように見えるのは当たり前です。ところが物があるように見えるのは、人間の肉の思いであって、それを信じたらいけないのです。

肉の思いを信じたら死んでしまうのです。その気持ちを捨てるのです。捨てようと

考えるのです。そうすると、御霊が教えてくれるのです。

蝉が鳴いているように思えるのは何か。蝉があるのではない。蝉が鳴いているという気分があるのです。パンを食べるというのは、パンを食べているという気分があるのです。腹がふくれたという気持ちになるのです。気持ちになったらそれでいいのです。

実は人間がこの世に生かされているのは、気持ちだけです。食べたいという気持ちです。喉が渇いたという気持ち、今日は暑いなあという気持ちです。気持ちだけで生きているのです。これを霊と言うのです。神は物を造ったではありません。物があると思えるものを造って、これによって人間にいろいろな気持ちを与えているだけです。

神と一緒に考えるとこれが分かるのです。神から離れてしまうと分からなくなるので

す。

神から離れて自分が生きていると思うと、分からないのです。イエスは神を信じて成功したのです。イエスは、私の言葉によって汝ら全て清くなっている。汝ら恐れるな、我既に世に勝てりと言っている。イエスが世に勝ったのですから、私たちが勝たなくもいいのです。わざわざ負けなくてもいいですけれど、イエスが勝ったことが我々が勝ったことになります。これをイエスを信じるというのです。自分自身で世に勝てなくてもいいのです。

人間はこの世に勝てるはずがないのです。自分の肉の思いに、自分が勝つことは、絶対にできません。ではどうして勝つかと言うと、イエスが勝ったことを信じるのです。イエスが勝ったことを信じると、勝てるのです。これが、自分の肉(悪魔)に勝つ方法です。

肉はないのです。

肉体があると思えるのは、人間として考えるからです。人間として考えることが間違っています。私たちは霊魂であって、霊魂という角度から見ると、肉体はないのです。これが分かると、人間の本能をどのように用いれば良いかが、だんだん分かってくるのです。

本能は肉体が与えられる前に、神が植えたものです。生まれる前に本能があるのです。従って、生まれる前の感覚で本能を用いなければならない。生まれた後の感覚で用いたら間違ってくるのです。ですから肉体はないという気持ちで本能を見なければいけないのです。

イエスが既に成功したのですから、それをもらうのです。イエスが成功したことが、

私たちの成功です。神はそれでいいと言っていますから、そうしたらいいのです。私たがしようとしてもできるはずがないのです。イエスが勝ったから、私たちも勝てるのです。自分がしなければならないと考えると、かえってイエスを信じていないことになるのです。

世に勝つのは誰か。イエスを神の子と信じて、イエスをもらうものが勝つのです。これが世に勝つのです。イエスは自分の親方だと信じるのです。イエスが自分の命だと信じると、勝手に勝てるのです。

自分が自分の思いに勝たなければならないと思ってはいけません。そう思ってもできないのです。自分がしなければならないと思うと、責任感ばかりが先行して、少しも実行できないのです。ユダヤ人がそれをしているのです。モーセの綻を行っているのは、実行しているつもりです。ユダヤ人のやり方は絶対にだめです。

自分の思いを信じないで、導かれる方を信じるのです。女性は正直でいいですけれど、気が小さいからだめです。すぐに自分の思いで人を裁くのです。導きを信じようとしないで、自分の思いを信じようとします。これがいけないのです。

人間の見方は全て幻覚です。幻覚を実感しているのを自分だと思っている。それは自分ではありません。死んでしまう自分であって、本当の自分ではないのです。

幻覚ではない自分は何かと言いますと、イエスが主であると信じている自分です。これが本当の自分です。幻覚を信じると、その人は死んでしまいます。自分が生きているのでない。イエスが私という恰好で生きていると考える。責任を自分が持たないのです。そうすると分かってくるのです。聖書を信じるというのは、あつかましいことを信じるのです。

女性は結婚して主人の家に入ります。そして、その家が自分のものだと思ってしまうのです。台所を握って、大将になってしまうのです。実は中将くらいですけれど、知らない間に大将になってしまうのです。台所を握るというのは大きいことなのです。

これと同じことをするのです。今生きているのはイエスだと考えるのです。キリストの妻とはこういう根性を持つことです。キリストの命が与えられていると思うことが、キリストの花嫁の心がけです。キリストにある良いことは、皆自分のものになっているのです。自分の悪いところはなくなっているのです。それでいいと神が言っているのですから、そうしたらいいのです。話が旨すぎると思われるかも知れませんが、旨すぎるから救われるのです。

人間はすぐに自分が生きていると思うのです。何かをしたら、すぐ自分がいると思う。ですから、瞬間、瞬間、自分の気持ちを捨てたらいいのです。


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