6悪魔を騙すために造られた現象世界

今は恵みの時、救いの日です。霊魂が救われている時を意味するのです。やがて来る千年間の絶対平和の時は、肉体生活が救われる時です。

恵みの時、救いの日は、神の救いを明瞭に与えられている時です。イエス・キリスト誕生以後の新約時代は、そうなっているのです。それなのに、思い煩いがあるとか、霊(人生)を神に渡しきれないというのは、おかしいのです。

肉体は計分のものではありません。これを自分のものと思うことが、罪です。体も命も全部、神のものです。

この世に生きていることを、やめなければいけない。この世に生きていたら、必ず死にます。これをよく考えなければいけないのです。

命には、必ず死ぬ命と、絶対に死なない命と二種類あります。肉体的にこの世に生きていると思っている人は、必ず死にます。必ず地獄に行きます。絶対に裁かれます。

自分の命はありません。命は神のものであるに決まっています。神の御霊によって光をあたえられていながら、その光の恵みを神の命として受け取っていない者は、皆、悪魔に味方をしていることになります。悪魔は神の知恵をどんどんもらっていながら、これを自分なりに利用しました。これが悪魔のやり方です。闇の世界では何も見えませんが、光の世界で見ると、立体的に見えるのです。同じ景色でも、光と闇とでは、全然遣って見えるのです。これが分かる人間は、何者かです。

人間の実体は魂です。魂ですから、光と闇の区別が分かるのです。それを人間の感覚で見ている。世間の感覚で見ているからいけないのです。見ているのは神の国ですが、受け取っている感覚が人間的だからいけないのです。これは恐ろしいことです。

新約時代の今日では、固有名詞の自分は全く消えてしまっていますし、今生きているのは、御霊という宇宙のエネルギーによるのです。

男性のハートより、女性のハートの方が上等です。霊的には女性の方が神に近いのです。男性の方が遠いのです。男性は頭で物事を考えますが、ハートで直感するのは、男性は苦手です。

神はアダムの手本になるために、エバを与えたのです。アダムがどうしても神を直感できなかった。そこでアダムのあばら骨を引き抜いて、エバを造ったのです。あばら骨は人間のハートであって、人間のハートの一番すばらしいところが、女性になっているのです。

霊的には、男性より女性の方が上等です。男性は現世で商売をするのに、向いてい

ます。女性は天国向きにできているのです。男性は、もっと女性を崇めなければいけなのです。アダムがエバを見て、びっくりしたように、女性の直感性を見習うべきです。男性の考え方は、知識、常識的です。

これは肉です。女性の直感は、霊です。潜在意識に、ずっと近いのです。ですから、女性の直感性に、見習わなければいけないのです。

男性は女性を押さえつけて、自分のわがままを通そうとしないで、男性の欠点と女性の素直さを学んで、自分の欠点をなくすのです。女性の値打ちを本当に知ると、奥さんは夫を本当に尊敬するでしょう。尊敬される夫になるのです。そうなろうと思えば、もっと女性をじっくり勉強しなければいけません。女性の良さが分からない男性を、女性は尊敬しないのです。

パウロは次のように述べています。

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(コリント人への第一の手紙620)。

聖書は「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受け取られなくなった」と言っています(ローマ人への手紙323)。自分を絶対とする自我意識と、目に見える現象世界が実在すると考える現象意識を持ったことが、罪を犯したことになるのです。その結果、人間は皆死んでいるのです。

ところが、イエス・キリストが十字架につけられたことによって、全ての人にある自我意識と現象意識を否定してしまった。絶対に死ななければならないという人間の運命を完全に否定した。死を滅ぼしたのです。これが代価を払って買い取ったことなのです。

新約時代の現在では、死ぬべき人間は、一人もいないのです。皆、御霊によって生かされている。御霊とは、森羅万象を生かしている驚くべき大自然のエネルギーで、これによって生かされている人間は、死ぬはずがない状態におかれているのです。

神の御霊を崇めて、景色を見るのです。そうすると、景色がすばらしく見えるのです。聖書に、御霊を受けるという言葉がありますが、聖書の言葉が自分の命になることを言うのです。そうすると、死ぬべき現世の人間から、絶対に死なない、永遠の命によって生まれることができるのです。

御霊を崇めるというのは、受けた御言葉を崇めるのです。これが命だからです。この御言葉を崇めたら、景色のすばらしさの意味が分かるのです。

景色は神の国です。景色を見て感動しているのは、神の国に感動しているのです。これを霊的に受け取ったらいいのです。そうしないと景色を見たことによって、かえって神に滅ぼされることになります。感覚を霊に変えるのです。感覚を信仰的に受け取るのです。そうすると、神の国に入れるのです。

女性は霊的に見ないと分かりません。肉的に見ていたら分からないのです。人間は聖書の話を、哲学的観念で聞いてしまうのです。それを自分の命として聞いていないのです。神の言葉は命であって、命の言葉として聞かなければ、聖書の勉強をする必要はないのです。

景色を見て喜んでいるのは、人間が喜んでいるのではないのです。神が魚の刺身を与えたり、おいしい果物を与えているのは、人間の肉を喜ばせているのではありません。神は人間の肉におべっかする必要はありません。第一、神が人間を救う必要は、全くないのです。人間が、勝手に肉の人間になっているのです。

神が景色を見せたり、おいしいものを食べさせているのはなぜか。これには大きな意味があるのです。あるに決まっているのです。

女性を肉の人間として愛さずに、命の糧としてしまうのです。

アダムがエバを見た第一声に「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名付けよう」と言いました(創世記223)。女性は肉のためにあるのではない。肉のためにでもあるのですが、実は、霊のためにあるのです。肉の肉でもあるが、骨の骨のためにもあるのです。

神が女性を与えたのは、骨の骨としての見方を教えるためです。肉の肉としても与えているが、本当は骨の骨だけでいいのです。女性を何回でも抱きたくなるのはなぜか。その本当の意味を知らないで抱いているのは、たとえ夫婦でも姦淫になるのです。神はただで女性を抱かせているのではありません。神は非常に勘定高い人ですから、ただでくれることはないのです。神は無駄なことをしません。ただで男性に女性を抱かせるはずがありません。又、女性も、ただで抱かれてはいけないのです。抱く値打ちがある男性に抱かれなければいけない。

これが分からない男性も女性も、皆姦淫をしているのです。女性は、活け作りの刺身よりもはるかに上等のものです。最高の料理よりももっとすばらしいのです。景色よりはるかに上等のものです。森羅万象を造って、アダムに見せたが、それを全然理解しなかった。一番最後に、一番分かりやすい形で、神の最高の栄光を女性として現したのです。女性は森羅万象の中で、最高のものです。

景色を見ている時の気持ちを、じつと見るのです。その時の気持ちを、深く深く見ていくと分かるのです。女性を見ているのと同じ気持ちで、景色を見るのです。富士山を見るのです。又、富士山を見ているのと同じように、女性が見えなかったらだめです。そこまでいかなかったら、霊が分かっているとは言えないのです。

砂糖が甘いのも、塩が幸いのも、雨が降ることも、雪が降ることも、暑いことも寒

いことも、全て人間の霊魂に、神の栄光を悟らせようとしているのです。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのだから、自分の体をもって、神の栄光を現しなさいとパウロは言っています。これはどうすることかと言いますと、自分が生きていることが、神の栄光を現在経験していることだということを、実感しなさいと言っているのです。

神が人間を地上に送ったのはなぜか。肉体的にこの地上で生活してみなければ、神の栄光を知ることができないからです。それを知らせるために、人間を地上に送ったのです。

刺身を食べさせるため、美しい景色を見せるため、女性を抱かせるためではないのです。そういうことを通して、神をどのように崇めるのか。神の命をどうして実感するのかを教えるためです。

自分自身に生きないで、神に生きなければいけないのです。

あなたがたの体をもって、神の栄光を現しなさいというのは、体がなければ、神の栄光が具体的に分からないからです。体を通して、神の栄光が具体的に経験できるのです。

この三次元の世界では、神の栄光は、全て、現象的に現れなければならないのです。神の栄光は全て、現象的にしか現れないことになっているのです。なぜか。悪魔に見せるためです。悪魔が、現象的に現してほしいと、強く主張したからです。

それでは、現在現れている森羅万象は、一体何か。隠れている神の栄光、この世が造られる前の神の栄光を、有形的に現しているのです。

有形的に現れている全てのものは、全部神の栄光です。これを経験しなければ、神の栄光が分からないので、肉なる人間にそれを経験させているのです。

肉なる人間は、罪の下に売られた人間です。罪の下に売られた人間というのは、悪魔の子である人間のことです。悪魔の子である人間に、霊の経験をさせるために、肉体を与えたのです。肉の経験をするために肉体があるのではなく、霊の経験をするために肉体があるのです。

目に見える現象(肉)があるのではなく、目に見えないもの、現れていないもの、非現象(霊)を示すために、現象(肉)があるのです。女性とか、景色、果物、牛肉があると思っているからいけないのです。見えないはずのものが、見える形になって現れているのです。

目に見えないものがある。それを見つけるために、現世にいるのです。現象が実体であると思っていると、必ず地獄へ行くことになるのです。

目に見えるものが、存在していると思っている。この感覚は肉(悪魔の思い)です。この感覚を捨てなければ、絶対に救われません。地獄へ行くに決まっています。

御霊を受けていたら、目の前にあるものが、目で見ている現象であると思えるはずがないのです。御霊を崇めるというのは、霊において見るということです。それをしていないから、神が皆様に森羅万象を見せている意味が、全然分からないのです。だいたい、肉体的に生きている人間は、死ぬに決まっています。死ぬに決まっているものを、神が造るでしょうか。

神は全知全能です。霊なるものです。霊なる神が、肉の人間を造るでしょうか。そんなバカなことをするはずがない。できるはずがないのです。

そうすると、肉の人間はいないはずです。十字架があろうがなかろうが、肉の人間は初めからいないのです。いるように思えるだけなのです。肉の思いで見れば、肉の人間がいるように思えます。それは悪魔を編すためです。悪魔をいっぱい引っかけるために、神がそういうことをしているのです。

悪魔には肉の思いしか有りません。肉の思いしかない悪魔を満足させるために、肉の人間がいるように見せかけたのです。

ヘビは肉の人間がいると思ったから誘惑した。そこで悪魔の言葉がエバの中に入った。入ってしまったので、善悪を知る木が慕わしく思えたのです(創世記215~17317)。

善悪を知る木には、ヘビが居着いていたのです。それが顔を出して、エバに呼びかけたのです。ヘビの声は、善悪を知る木から出ているのです。ヘビと善悪の木は、一つになっていた。エバがヘビの声を聞いて、善悪を知る木を見たところ、食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましく思えたのです。

ヘビの言葉を聞いたとたんに、ヘビの言葉がエバの中に入ってしまった。その時エバは、目で見ていることが実体だと思った。これが肉の思いです。

ヘビの言葉が、エバのハートには入ってしまった。ですからエバが先に善悪の木の実を食べてしまった。その実を取って、自分一人で食べただけなら良かったのですが、それをアダムに与えた。アダムもそれを食べたのです。

エバがアダムに善悪を知る木の実を、食べさせた。そこでエバがアダムの下に置かれたのです。

本当はエバの方が上等です。あばら骨は頭よりも上等です。頭は現世で生きるための知恵です。考える機能です。生まれる前の命は、ハートでないと分かりません。

女性が先に、善悪を知る木の実を食べたので、女性は夫を慕わなければいけないことになった。本当は反対です。男性が女性に惚れて、男性が女性の下にならなければいけないのです。

これが当たり前ですが、女性の方が先に禁断の木の実を食べて、男性に食べさせたのですから、罰として、男性の方が上になったのです。それを今の女性は知らないのです。本当は女性が上であることを知らないのです。

神は人間を、自分より勝るものとして造ったのです。神ご自身は肉を持っていませ神でさえ持っていないものを、人間に与えたのです。肉を与えたというのは、肉体人間を造ったことではありません。肉をマスターできる能力を霊で与えておいたのです。肉の上に立つことができる能力を人間の霊魂に与えておいて、肉を与えたのです。神の言葉が肉となったと言うのは、そのことなのです(ヨハネによる福音書114)。

皆様の本質は、神の言葉ですから、肉よりも上です。肉より上の力を与えておいて、肉体を与えた。そうするとどうなるか。肉より上の力を持っているから、神の言葉という霊の力によって、自分の肉をマスターすることができる。肉をマスターすることができると、悪魔を踏んづけることができるのです。悪魔を踏んづけたことになるのです。

肉的に生きている人間は、皆悪魔です。自分の気持ちで考えるから、思い煩いが起きる。自分の気持ちで考えるから、自分が不幸になるのです。

信仰によって、神を通して見れば、悩み、矛盾は全てなくなります。病気があっても、命に関係がないのです。命は霊なるものですから、・霊なる命が分かれば、病気であってもかまわないのです。この世を去ってもかまわないのです。

この世に生きていてはだめです。御霊を受けたものは、この世を去ってもいいのです。聖霊を崇めていれば、死ぬことは怖くない。死んでどこへ行くかが分からないから、死が恐ろしいのです。

御霊を受けた者は、神の国に入れるのです。現世に生きていながら、神の国に入るのです。神の国に入っていないから、思い煩い悩みがあるのです。御霊を受けてから、思い煩うことはあり得ない。御霊を受けたから、今生きている世界が、神の国であることがわかるはずです。

皆様が現在見ているものは、ことごとく神の栄光です。神の栄光として、森羅万象があるのです。神の栄光というのは、この世ができる前のものです。この世ができる前には、死がなかったのです。死がなかった時代のことを、神の栄光の世界と言うのです。

この世には死があります。この世に現れているものは、全部死んでしまうのです。現象世界は死の世界です。死ぬに決まっているものが、現象として現れているのです。

そこで、現象世界を見て、これが本当だと思っている人は、死の世界を見ているのです。肉体的に生きている自分がいると思っている人は、必ず地獄へ行きます。絶対に行くのです。

肉なる人間はいない。霊なる神が、肉なる人間を造るはずがないのです。霊なる神が、肉なる人間を造るはずがないのです。

皆様は、目に見えているものが肉だと思えるでしょう。家がある。道路がある。車があると思えるでしょう。実は、そんなものはないのです。

物質は全て化学現象です。神の言葉の働きは、化学の原理を意味しています。化学現象が、実在のように見えるのです。実際には実在していないのです。あるように見えるだけのことを、本当のように信じている者は、神を信じないで肉を信じていることになります。悪魔を信じているのです。

悪魔は人間と同じ気持ちで見ているのです。皆様は悪魔と同じ気持ちで見ているのです。これを死と言うのです。肉の思いは死であるとあります。これから抜け出さなければ、死んでから行く世界が、どういうところか分からないのです。

死んだら、どんな世界へ、どのように入っていくのか。皆様は天に帰らなければならないのです。天も霊も同じものです。霊が肉になって現れている。現世は、この世ができる前の霊の世界が現れているのです。

天があるから地がある。霊があるから肉がある。逆に言うと、肉があるから霊があるのです。地があることは天があることを示しているのです。

神は皆様に見せるために、美しい景色を造っているのです。見ても分からないものに、神は見せるつもりはないのです。景色を、すばらしい神の国として見たのは、私たちが初めてでしょう。

景色は、はっきり神の国です。神の国は、この世が造られる前の風景です。それが、今、景色として現れている。ここまで見破らなければならない。ここまで見破ると、この世の人ではなくなるのです。

美しい景色を見ていると、人間の霊魂が吸い込まれるような感じがするでしょう。なぜそういう感じがするかと言うと、人間の霊魂は、自分が生まれる前の天を求めているからです。皆様の霊魂は、そこにいたのです。天にいたものが、今、地に現れている。ですから、皆様の魂は、いつでも天に帰りたいと思っているのです。

ところが、肉の自分が、この世があるとか、商売があるとか、所帯があるとかを考えて、霊が天に帰ろうとするのを、肉の自分が押さえつけている。霊の国が目の前にありながら、現世のことに夢中になっている。そこで、元の木阿弥になってしまうのです。

霊の国が分かったら、そこへ入らなければいけない。これを御名を崇めると言うのです。新に生まれて、神の国に入るのです。

男性は女性を勉強しなければいけない。女性の直感は、男性にないものです。これを勉強すると、神の国に入る要領が分かるのです。

肉は実在しない。ただ肉の思いがあるだけです。肉の思いがあるので、自分で肉の世界を造っているのです。肉体的な自分がいると思っている。そんなものは、どこにもないのです。自分がいると思っているから、自分があるのです。肉の思いが、肉の形をとつてしまうのです。自分の思いが、自分の世界を造ってしまう。人間はそういう愚かなことをしているのです。

信仰によりて歩むなら、霊の思いが生じて、霊の世界を展開してくれるのです。肉の世界はありますが、肉の思いをたたいてしまうと、消えてしまい、霊の国になってしまうのです。

私たちが見ている世界は、実は霊なる国です。目で見えないはずの世界を、見ているのです。.私たちは、この世が造られる前の世界を見ているのです。これが神の栄光です。神の栄光を見ているのです。

私たちが今生きているここに、神の国があるのです。死んでから天国へ入ると思ったら、大間違いです。今生きているうちに、入るのです。

天にいます父の御心を行うものは、そこに入ると書いています。天国はどこにあるか。天国は畑に隠れた宝のようなものである。天国は良き真珠を探している商人のようであるとあります。これが天国です。ここに入るのです。私たちは神の栄光を見ているのですから、これさえ分かれば、そこに入れるのです。

花が咲いています。これは霊なることです。天なることです。花が咲いているという世界があります。その世界がなければ花は咲かないのです。目で花が咲いているのが見えます。その世界へ入ってしまうのです。天国はそこにあるのです。死んでから行くところとは違うのです。生きているうちに入れるのです。

花が咲いているという天に、父がいますから、そこに行くのです。父の前に言ったらいいのです。

生きている世界に、永遠の命があるのです。花が咲くというのは、御霊の働きに決まっています。御霊のいますところには、生ける神がいるに決まっています。

花が咲いているのが見えるところというのは、生ける神の働きを見ているのです。見ていながらそこへ入れないというのは、肉の思いが妨害しているからです。肉の思いを捨てさえすれば、誰でも神の国に入れるのです。

皆様が生きているのは、天国の入り口に生きているのです。御霊を受けた人は、神の国に入らなければいけない。御霊を受けた者が、天国へ入れないということは、あり得ないのです。ただ宗教観念で、肉の自分を認めているからいけないのです。肉の自分が救われようと思っているからいけないのです。

救われるのは誰か。御霊を受けたという魂が救われるのです。御霊を受けたから救われるのです。御霊を受けたという事柄が救われる。自分という人間が救われるではないのです。

自分は初めからいません。キリスト紀元には、自分は一人もいないはずです。代価を払って買い取られたのだから、自分はいないのです。買い取られたから、自分は消えているのです。御霊を受けたという手付けによって、買い取られている。これが十字架の本当の見方です。

買い取られた人は、神の国に入れるに決まっています。自分の体で神の栄光を現すというのは、神に生かされているということを実感するということです。神に生かされていることが実感できるだけで、神に栄光を帰すことは十分にできるのです。


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