7人問は現在パラダイスに生かされている

自分が生きているとなぜ思うのでしょうか。なぜ自分が救われなければならないと

思うのでしょうか。自分がいることを悪いと知っていながら、それを止めようとしない。肉に甘えているのです。

自分が生きていると思う気持ちは肉です。自分の肉の気持ちを認めたら、必ず地獄へ行きます。絶対に地獄へ行くのです。

仕事はしなければならないことはないのですが、信仰はしなければならないのです。人間がしなければならないことはただ一つ、神の国に入ることだけです。どんな理由があっても、聖書が分かっても、分からなくても、絶対に神の国に入らなければならないのです。

自分が生きているのではありません。生きていることが、自分という恰好で現れているのです。これを逆に考えて、自分が生きていると思うのです。

生きているという事柄が、自分という恰好で現れている。そうすると、生きているのは神の子に決まっているのです。なぜ自分が生きていると思わなければならないのでしょうか。誰でも固有名詞を付けられていますが、これは、この世に生きていくための方便です。加藤清正という人間がいるのではなく、神がその魂を生かしているのです。世間では加藤清正と呼んでいただけなのです。

自分は絶対に救われません。仮に救われてもしかたがないのです。自分を神が認めていないからです。救われるのはその人の魂です。神は魂に御用があるのであって、固有名詞に御用はありません。ですからイエスは、自分を愛する者は、必ず滅びると言っているのです。

今まで、異邦人の中で、神の選民のために祈らされる人はなかったのです。イスラエルの回復のために、祈るという人は、六千年の間、世界中で一人もいなかったでしょう。それを私たちはやらされている。本気になって、命と引き替えるくらいの気持ちで、イスラエルのために祈らなければならないのです。

イエスは現世にいる間には、恥をもいとわなかったと聖書にありますが、これは恥を軽蔑するという意味です。

イエスの恥とは何か。イエスは父親がなかった。これは世間的には恥です。世間ではマリアがローマの兵隊に強姦されて、イエスが生まれたと考えられていたのです。

イスラエルでこのように考えられるということは、恥も恥、最も大きな恥だったのです。外を歩けないほどの恥だったのです。皆様はそういうことを経験したことがありませんので、本当の恥ということを知らないのです。

イエスが恥を軽蔑していたというのは、どんな気持ちだったのでしょうか。イエスは自分がいることは考えなかったし、現象人間がいるとも考えなかった。従って、母親のマリアがローマの兵隊に強姦されたとしても、そうでなくても、どうでもよかったのです。何億の人間がいるという事実がなかったのですから。

イエスは、人間が生かされているということはありますが、それは実体的に生きていることではないことを、知っていたのです。生かされているというのは客体です。客体はありますけれど、人間が考えているようなあり方で存在しているのではないのです。

現象世界は、神が現わしているトーキー(映画)みたいなものです。人間のトーキーは、音が出ますし、形も見えますが、味、臭いは全くありません。神のトーキーは、味も香りも、臭いもあります。触ってみると暖かさもありますし、冷たさもあります。神のトーキーは、人間の五官にぴったりあうのです。

人間が造ったトーキーは、目と耳だけ感じるのですが、神のトーキーは、鼻にも口にも、手にも、五官全体に感応するのです。肉体人間は、神のトーキーとして現れているのです。実体とは違うのです。

イエスは言っています。「人を生かすものは霊であって、肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハネによる福音書663)。

人に命を与えるものは霊です。この霊は神の霊でもありますが、人間の霊でもあります。人を生かすものは、神の御霊ですが、同時に、人間自身の霊でもあるのです。

なぜなら、人間の場合は、神の御霊が人間を生かすとその神の御霊に反応して、人間

自身の霊が働き出すのです。個人の名前ではっきり呼ばれると、その人は、はっと反応するのです。

純粋に客体的な事実は、人間が生かされているということです。生かされているということが、自分自身に意識されなければならないような状態で指摘されますと、びくっとするのです。いいことでも、悪いことでも、そうなるのです。これが人間の霊です。ですから神が人間を相手にするのです。こういうことが感じられるのは、人間しかいないのです。

生かすものは霊です。神が人間を生かしているのです。鼻から息を出し入れさせているのは神です。しかし息を出し入れしているのは人間です。人間の心臓を動かしているのは御霊です。その事実の上に乗って生きているのは、人間です。

神に生かされているという事実と、人間が生かされているという事実が、一つになっている。これを霊と言うのです。命を与えているものと、与えられているものが一つになっているのです。

人間は命を与えられていることが分かります。これを生命意識と言います。生命現象は神からのものです。生命意識は人のものです。生命現象と生命意識が一つになっている。これを人の霊と言うのです。

生きているというのは、皆様自身のものではありません。神の生命現象と皆様の生命意識が三になって生きています。これが人の霊です。

神は人間を生かしています。これは人間に霊を与えているのです。神が人間を生かしていることが、そのまま御霊です。皆様の心臓が動いていることが御霊です。人間の場合は、それを意識して受け止める力があるのです。

御霊を受けるということは何か。生きていることが、自分自身のものではないことを、神の言葉によってしっかりと分かることを、御霊を受けると言うのです。

御霊を受けた人は、自分が生きているのではないことが、皆分かつているのです。これを、御霊を与えられたと言うのです。これは神が選んで、永遠の命に入れてやろうという契約の手付けです。御霊を与えられた者は、神の国に入る資格があるのです。

皆様は自分が生きていることを深く理解すれば、自分の思いで生きていてはいけないことが、よく分かるはずです。

人間には命が与えられています。これが霊です。命を与えるものは御霊であると書いているのです。これは神の霊であるという部分もありますが、自分がそれを認識しているということでもあるのです。この霊は小文字のスピリット(Spirit)あって、大文字のスピリット(spirit)ではないのです。

人間の霊は、神と人との合体になっている。これに気づきさえすれば、生活のことや、信仰のことを、自分であれこれ心配する必要は全くないのです。自分で生活しなければならない、信仰しなければならないと思う必要はないのです。

魂の働きをよく考えていただきたい。魂が何を求めているか、何を願っているのか。これは分かりやすいことです。霊を喜んでいるに決まっています。

これは原則的なことです。この原則が分かっただけではだめです。なぜなら、総論賛成、各論反対になるからです。聖書を勉強すること、神の国を求めること、イスラエルの回復を祈ることには、賛成と言います。そのために、信仰の基本を繰り返しなさいとなると、各論になる。各論になると反対です。

総論賛成、各論反対は、政府の行政改革だけではありません。世間のことは全部同じです。家庭の事情でも、人間関係でも、総論は賛成であるが、各論は反対です。皆そうなるのです。皆様が毎日していることは、総論賛成、各論反対です。そういう無責任のことをしているのです。原理的には賛成ですが、実行しなさいと言うと、できないと言うので

す。夫婦の問題でも、家庭の問題でも、全てそうなっているのです。これがいけないのです。

総論が原理的に分かれば、各論に賛成するはずですが、そうはいかないのです。これが肉体を持っている人間の矛盾です。分かっていながらそれができない。この壁を乗り越えなければいけないのです。

神が人間を生かしている。人間はそれを受け取っている。神に生かされていることと、人間が生きていることが、一つになっている。生きているということが、神的にも人間的にも両方に通じるような生き方を自覚しなければ、生きていることにはならないのです。

過去という時間と、未来という時間が、ヘブライ語では一つになっています。ヘブライ語では、明日動物園へいきましたという言い方が、成立するのです。明日行くという約束をした以上、それが具体的事実になって現れたように、考えなければいけないのです。これが約束の原理です。

生かすものは霊であるという言葉と、肉は益なしという言葉とは、裏表になってくるのです。生かすものは霊であるということが分かっても、肉は益なしという言葉が分からないと、信仰が身に付かないのです。頭で理解していながら、実行できないということが、一番いけないのです。

信仰は死ぬか生きるかの問題です。再臨のために、携挙されなくてもいいから、イスラエルに祈らなければならない。人々から気違いと言われても、かまわないのです。神にとって、これが一番大切な問題だからです。

三度、三度の食事をして、鼻から息を出し入れして生きておれるというのは、御霊を崇めることができる人間です。御霊を崇めることができない人間は、死んでもかまわないのです。そういう人間は、生きている値打ちがないからです。信仰は、一か八かの問題です。本当にするなら、自分の命、人生を賭けなければいけない。イエス・キリストが十字架で血を流したことを、自分のものにしようと思うなら、それくらいの努力は必要です。

基本的に皆様が知らなければならないことは、肉は何の益もないということです。なぜイエスがこういう言葉を使ったかと言うと、肉は何の利益もない、何の役にも立たないからです。

虚体と空体と実体がありますが、肉は虚体です。何の役にも立たない、嘘、虚像です。あるようにみえるけれど、ただの壁号す。人間の肉体がそうなっているのです。

譬をもうけて口を開きという言葉があります。神は肉をもうけて口を開いています。肉という形で、口を開いているのです。ところが、肉は全くの虚体です。ではなぜそんなものがあるかと言うと、虚体を通して、実体を現すためです。実体を現すために、虚体がなければならないのです。

虚体に生きている人間は、空を通してでなければ、実を捉えることができません。ここに五蘊皆空の意味があるのです。

人間は肉に生きています。肉に生きているものは、空を通して実体にいくのです。実体は霊です。虚体は肉です。その間に空があるのです。空中に悪魔が頑張っているので、肉から霊に行くことができない。空でなければ、ここが超えられないのです。

空を超えないで信仰をしていると、いつまでたっても役に立ちません。肉を認めたままで信仰しているからです。自分が肉体的に存在していることを、認めたままで神を信じているから、いつまでたっても御霊を崇めることができないのです。肉体の自分に甘えているからです。

肉は益がない。利益がないのです。現世に生きていて、現世のことが本当だと思っていたら、大間違いです。例えば、自分の仕事がある、自分の家庭がある、財産があると思うのは、自分の肉です。そんなものを信じていてもだめです。それらが、ことごとく皆様を裏切るでしょう。肉の自分を信じていることは、裏切り者を尊んでいることになるのです。肉体的に生きている自分は、いつでも魂を裏切っているのです。

肉は益なしどころか、肉は悪魔であるとはっきり言った方がいい。肉に逆らうのです。肉は虚です。嘘だからです。どんなものでも肉は譬です。

この世が始まる前にとこしえの命がありました。それが現在、肉という形で現されている。皆様の肉は、実は霊そのものです。霊そのものが、肉というあり方で現れているのです。イエスはそれを言っているのです。私の言う言葉は、霊であって、命であると言っている。ただの言葉とは違うのです。

この世が始まる前に、とこしえの命があった。それは悪魔が現れる前の命です。悪魔が現れる前の命は、死なない命です。悪魔が現れてから、命の中に死が入り込んできた。悪魔が現れるまでは、死は影も形もなかったのです。神の完全な命だけがあった。それが、今、私たちの肉となって現れている。死と何の関係もないすばらしい命が、肉となって現れている。これが霊です。ですから、肉の思いで食事をするだけで、罪を犯しているのです。厳密に言うとこうなるのです。

肉体的に生きているという事実が間違っているのです。夫婦のセックスも、肉体的に考えたら間違っているのです。二人とも、裸にして恥じなかったという感覚で、セックスが考えられなかったらいけないのです。これぞ私の骨の骨という見方ができなかったらいけないのです。肉は益なしという三一口が、キリスト教の牧師は説明できません。牧師自身が肉で生きているからです。肉を蹴飛ばすという勇敢な牧師が、日本に一人もいないからです。

自分が生きていることが霊です。肉ではありません。これが分かると、神を信じる

という可能性が出てくるのです。

肉は益なしということが分かると、初めて、人生が楽しくなるのです。肉という実体があると思っていると、一杯のお茶を飲んでも、肉体がお茶を飲んでいると思うのです。

肉は益なしが本当に分かると、お茶を飲んでいることが霊になるのです。肉という恰好で、私の霊がお茶を飲んでいるのです。お茶の味は霊です。お茶を飲んでいることが、霊に従って生きることになるのです。これが分かると、お茶を飲む楽しさ、まんじゆうを食べる楽しさが、聖霊の交わりと同じ楽しさになってくるのです。ましてや、夫婦の営みの楽しさはどういうものかです。これはすばらしいことです。ところが、肉体があると思っているから、夫婦の睦の意味が、全然分からないのです。肉の思いばかりで、肉は欲だとばかり考えているから、間違ってくるのです。夫婦の営みは、すばらしく標準の高いものなのです。

心の楽しみとはどういうものか。おいしいものを食べることも、美しいことを見るのも、楽しいのです。楽しいという心理的状態は何を意味するのか。これが哲学者、神学者に分かりません。イエスはこれが分かっていたのです。ダビデは、エホバを思うわが思いは、楽しみ深からんと言っています。

パウロは、常に喜べ、絶えず祈れ、全てのことを感謝せよと言っています(テサロニケ人への第一の手紙51617)。この中で一番楽しいのは、絶えず祈るということです。自由自在に祈ったらいいのです。歩きながら般若心経を唱えてもいいですし、聖書の言葉を考えながら祈ってもいいのです。

これが神にものを言うことになるのです。神にものを言うことが一番楽しいのです。その間、この世のことを考えなくてもいいのですから、これは誰でもできるのです。絶えず祈るということほど簡単なことはありません。神の方を向いていれば、それが祈りになっているのです。人間の魂が神の方に向けば、もう祈っているのです。いちいち「おお主よ」と言わなくてもいいのです。

楽しみとは何か。魂が成長するチャンスですから楽しいのです。毎日、毎日、新しく神を見る。これをすると、無限の楽しみを与えられるのです。

朝顔が咲いている姿を見てください。とても楽しみです。幼児が遊んでいる様子は、楽しいのです。信仰とはこういうものです。理屈ではないのです。おいしいものを食べると、とても楽しく思います。舌でおいしさを感じる時に、神がその人の舌という霊を通して、魂を刺激しているのです。それをどこで感じているのか。脳で感じています。魂を養っているのです。森羅万象を見る目を通して、魂を養っているのです。

人間の五官は霊魂です。霊魂が五官になっているのです。五官は魂です。魂が五官です。五官を通して、森羅万象と交わっているのです。味でも、見ること、聞くこと全てが、魂の栄養になっているのです。このことをイエスは、見ることができるものは幸いである。聞くことができるものは幸いである。人間の目や耳が、永遠の命に重大な関係があると言っているのです。

人間の楽しさは何か。魂が成長することです。苦い杯を飲んだらどんなに成長するのか。急成長するのです。

人間の肉は、全て、とこしえの命の雛形です。肉の肇です。現象を通して、とこしえの命を現しているのです。ですから、実は、肉はないのです。とこしえの命が、肉という恰好で見えるだけのことです。

まんじゅうの味は何か。それがとこしえの命です。色とは何か。これもとこしえの命です。青葉若葉の色、花の色、紅葉の色、青空の色は、皆、とこしえの命の現れです。

森羅万象の森羅は、色々のものが盛り上がっている状態を言います。森羅万象は綾模様、読み物です。雲の流れ、蝉の声、コオロギの声、鳥の声、波の音、風の音、山の姿、川の流れ、名月の輝き………。これらは、何を意味しているのでしようか。そのまま、とこしえの命を現しているのです。

永遠の命が、月の光として輝いている。それをじっと見ると、たまらない感激を覚えるのです。そういうとこしえの命を味わうために、人間の五官が与えられているのです。

人間の五官は、見ること、聞くこと、味わうことによって、毎日、とこしえの命を味わっているのです。ですから、五官によって、神を味わう喜びを味わってもらいたいのです。

絶えず祈るとはどういうことか。祈ることができるうれしさ、楽しさが味わえるのです。現世にいて、一番楽しいことは、祈ることです。祈ることによって、神をつかまえることができるからです。これが一番楽しいのです。生きていないとこれはできませんので、現世に生まれてきた意味は大きいのです。

神は、我を仰ぎ望め、さらば救われんと言っています。この方を仰ぎ望むことが、喜びです。五官はいつでも神を仰ぎ望んでいるのです。

生きていることは、小さなことから大きなことまで、皆、神との交わりです。五官は神と交わる機能です。皆様は、そういう五官を与えられているのです。ですから、生きていることは、とても有難いことなのです。五官を正しく用いれば、生きているままの状態で、神の国に入れるのです。生きていることが、そのまま、パラダイスにいることが分かるのです。

五官が、見たり、聞いたり、味わったりして喜んでいる。これは皆、パラダイスの喜びを味わっているのです。生きていることは、具体的に、現実的に、神と交わっていることなのです。イエスはこのことを、はっきり経験していたのです。

人間は誰でも、死にたくないと思っています。なぜ死にたくないと思うのでしょうか。生きていることが楽しいからです。生きていることが、なぜ楽しいのでしょうか。

意識していても、していなくても、五官を通して神と交わっているからです。果物を食べること、テレビが見られること、音楽が聴けること、旅行ができること、これは全て神を楽しんでいるのです。神に栄光を帰して、大いに楽しんだらいいのです。

楽しいこと、嬉しいことが、そのまま魂が伸びるチャンスです。喜び楽しめとは、それなのです。神と共に喜び、神と共に楽しむのです。神と共に、一杯飲んだらいいのです。そういう生活ができるのです。

五官が味わう喜びは、魂の喜びです。神は森羅万象を通して、人間の魂を救おうとしているのです。

ヤコブは言っています。植えられた言葉(五官)は魂を救う力があるから、この五官を素直に受け取りなさいと言っています。植えられた言葉は五官のことです。五官の働きは、言葉の働きです。これが魂です。五官の働きが魂を救う力があるから、これを素直に受け止めるのです。

肉は益なし。私の言葉は霊である命であると言ったイエスの言葉は、こういう意味なのです。神の言葉がそのまま五官になっている。五官によって、父なる神と交わっているのです。これは絶対に間違いがない事実です。

そのように、私たちはいつでも神と交わるチャンスが与えられていますから、日常生活の一挙手一投足を、もっと注意して見ていただきたいのです。

皆様が見ているもの、聞いているもの、食べたり飲んだりしているものは、全て、世界ができる前からあった、とこしえの命です。とこしえの命が、ご飯になり、お茶になり、木や花になって現れているのです。皆様は現在、永遠の命の実物を、見たり聞いたり食べたりしているのです。これが分からなければ、地獄に行くしかない。地獄へ行ってひどい状態におかれなければならないのです。

皆様は現在、パラダイスの真ん中で生かされています。ところが、肉の思いがあるために、分からない。自分が生きていると思っているために、魂が盲になっているのです。自分が生きているというバカな考えを止めて、神に生かされていると思うのです。そうすると、目の働きや耳の働き、舌の働きが、神の働きだということがよく分かるでしょう。そうして、神の国に生かされていることが、ありありと実感できるでしょう。


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